議論は無条件にいいことだ。 2005年09月28日
「議論は悪い」わけがないじゃないですか。そもそも、そうであれば、blogがはやる5年も前から、〈掲示板〉で自分の日記(みたいなもの)をつけたりはしません(厳密には『芦田の毎日』はblogではありません。それよりもはるかに開放的な〈掲示板〉です。
旧『芦田の毎日』(http://www.ashida.info/trees/trees.cgi)では議論が昂進したあげく、掲示板荒らしにあったために、メールアドレス登録タイプに変えてしまったのが、現在のものです。やはりすっかり書き込みは減ってしまいました。残念に思っていたところです。世界中を敵に回しても耐えられるくらいに、われわれは専門学校や職業教育の将来について、実習授業の問題点について、講評主義の問題点について議論を尽くしてきました。
まず誤解を再度指摘しておきます。あなたは何度も(私の発言に関して)教員の返信(反論)がないことを喚起していますが、ちょっと考えてみてください。なぜ、私の私的なサイトに、しかも毎日議論している(われわれの足元の)教育に関して、再度書き込みをする必要があるのですか。そんなことは(もしそんなことがあるとすれば)異様なことです。反論の書き込みがないことが、反論がないことであるなどとは、私自身がまず真っ先に思っていないことです。だからこそ、私はあなたにまじめに応えているのです。
私は、あなたの授業も含めて、あなたが考える以上に毎日、毎時間、授業現場の評価をし続けています。いちども気を抜いたことはありません。そのように毎日、毎時間、教員を相手に授業目的や授業法についての“議論”をし続けています。わざわざ、あなたに反論されるまでもなく、反論も不満も聞き続けているし、一つ一つの反論に答え続けてもいます。そもそも私(たち)の改革に(旧来の教員側からの)反論がないわけがないでしょ。スタティックに教育が前進するわけがないじゃないですか。それは私自身が一番心得ていることです。私があなたの授業を許せないのも、(非常勤にすぎない)あなたの錯誤をそれでもとても人ごととは思えないからです。
学生を教育する以上に難しいのは教員を教育することです。そして教員を教育することなど不可能なことです。(校長の私に)できることがあるとすれば、授業現場にできうるかぎり足を運び、これで本当に(あなたが)教えたいことが教えられているのか、と問い続けることでしかありません。校長になってからの4年間、私はずっとそのスタンスを維持してきました。
「校長の仕事(たとえば、http://www.ashida.info/jboard/read.cgi?num=262」」の授業評価(とその公開性)は、その成果の一つです。私が「校長の仕事」(の授業評価)で実践していることは、いまだに(これまで)教育現場できちんと指摘されてこなかったことに限定しています。
教員の実名をのせたりすることに抵抗や批判は一部ありますが、どこの学校でもきちんとなされていることを、我が教員たちはできていない、というスタンスで“批判”したことなど一度もありません。どこの学校でも出来ていないことを批判すること(批判されること)のどこが恥ずかしいことでしょうか。「校長の仕事」は、わが校の教育の水準を代表している公共的な批判だと考えています。それはむしろ学校の責務(の一つについての実験的な試み)でもあります。教育に王道などありえないのですから、すべての批判は公共的であるべきです。
公共性について、もう一つ言いたいことがあります。「授業中、予告無く、何度も他の先生が入ってこられて色々されたら、そういう言葉使い(「介入」という言葉:引用者註)だってしてみたくなる、といった程度の気持ち表すために『わざと』使った言葉です」とあなたは言う。これはわかるような気もしますが、やはりおかしい。授業は生きもので、教員と学生との薄氷を踏む緊張感の中で成立している。“第3者”が「予告なく」入ったらそのバランスが崩れる。そういうことでしょうが、われわれは、そのバランスがすでに崩れているからこそ、介入したのです。個別指導を外れた学生の多くが退屈な姿勢を続けている。「予告なく」学生を放置しているのはいったい誰なのか。誰が本当のマナー違反なのか。
学生にとっては、学校での授業時間のすべての時間が分刻みでお金(授業料)を支払った時間です。保護者がその光景を見て、私はこんな授業のために授業料を工面したのではない、と思われはしないか(私は、私自身が授業料を工面するのに苦労している親の一人としてそう思いながら授業評価を続けています)。判断が整えば、学校の全勢力を傾けて授業に“介入”します。それはまさに授業が生きものであるからこそ、です。
そこで、もう一つの無理解を指摘しておきます。「前回、たった2人しか提出できなかったのに、今回は4人を除く全員が提出してきました」。この現象をあなたは「ようやく、(学生である)自分たちが『何をやっていたか(いるか)』理解できた、という感じです」と正直に吐露されています。しかし私はこの現象に前進を見出しはしません。これこそが、個別課題主義の悪いところだと考えています。講評、個別指導の評価は、かならず作品提出が鍵を握ります。提出されれば、とりあえず60点(合格点)。許してやる、ということです。
これは評価の相対主義です。出そう(提出しよう)が出すまいが、ダメなものはダメ、ではなくて、相対的な努力主義をとるわけです。これでは教育力は上がりません。評価の基準を学生側の個人的な(=ヒューマンな)態度に置くからです。そこには教員や学校側が何を教え得たのか、という肝心要の課題が抜け落ちています。個別指導主義と評価の相対主義とは表裏一体です。そして評価の相対主義は、教員の授業努力を棚上げにしてしまいます。許してやる、というように。評価の相対主義は、いつも教員や学校が“威張っている”だけのことです。専門的に学ぼうとする学生に対してこんなに失礼な態度はありません。それが私が個別指導を評価しない理由です。
最後にもう一つの誤解を指摘しておきます。「上へ下への大騒ぎ」をしていたのは、私が自分一人で騒いでいただけのことです。今回の“事件”は科長が教員指導を結局のところ怠っていただけのこと。私が騒いだのは、あなたの意見に対してではなく、なぜ、こういった(実習授業についての)基本的な考え方が非常勤教員に対して伝わっていないのか、という点でのことです。むしろ私は〈内部〉に対して騒ぎました。だから、それはあなたがお気遣いされる筋合いのものではありません。教員の問題はほとんどが私を含めて管理職の問題です。だから教員個人としてのあなたの問題ではありません。その意味で「直訴」はいつでもOKです。遠慮することなどまったくありません。
付録(1)
あなたが使う「クライテリア」は「基準」という程度のものです。しかし「クライテリア」はCritique(批評)、crisis(危機)と語源を同じくしています。もともとのいみは、“分岐”“分かれ目”を意味します。そのものの本質を確定するような限界点、それがクライテリア(criterionの複数形)です。それは尺度、いうよりは、〈本質〉に近い意味を有しています。カントが『純粋理性批判』というときには、純粋理性の圏域を確定し、その本質を画定するという意味でKritik(ドイツ語)という言葉を使っています。したがって、「クライテリア」とわざわざ欧語を使う意味はあなたの文脈にはまったくありません。
付録(2)
あなたは以前、ポストモダン思想の解説らしきものを(粗い文体でもって)我が学生たちにしていましたが、その場合のポストモダニズムは、合理主義、機能主義、科学主義の対極にあるものとしてのモストモダンでした。それで言うと合理主義、機能主義、科学主義(何と今回のあなたの書き込みでは「理想主義」「ユートピア主義」までもが)が“モダン”に属するものということになっています。これはウソです。もし、合理主義、機能主義、科学主義がモダニズムだとすれば、シュールレアリスム思想をどう解説しますか。その“定義”ではシュールの諸作品を覆い尽くせません。“モダン”主義とは、世界や作品を“作者(必ずしも人間とは限らない)”の存在するもの、“作者”の表現、表出物として考える思想のすべてです。たぶんその極点のところにいる思想家がヘーゲルです。ヘーゲルを理想主義者だというのにはなかなか勇気がいります(たくさんの手続きがいる)。その程度にあなたの「モダニズム」の用語法は杜撰です。
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