2005年入学式式辞 ― 器用な人間になってはいけない 2005年04月08日
みなさん、ご入学おめでとうございます。4校を代表して祝辞を述べさせていただきます。
期待に胸ふくらませている皆さんを前にして、私は、皆さんにお話ししておきたいことが三つあります(いつも話が長くなって、みんなから怒られていますので、今日こそは短めに、と思ってお話をしますが、今日もどうなるかわかりません)。
一つは、私どもの学校は、学生よりも教員が日夜勉強している学校だということ。
それは先生が勉強不足なのではなくて、教員自身が毎日毎日勉強を続けなければならないほど、社会の変化や技術の高度化のスピードは速く、就職戦線に勝ち抜き、次世代をになう人材を育成するには、まず何よりも教員自身が時代の先行きをいち早く察知し、新しい知識と技術の動向を予感し、自ら学ばねばならないということです。
高校までは、教科書を使って安定した知識と技術を学べば良かった。安定した、というのは、基礎知識・基礎技術ということでしょうが、出口がもはやもう一つの学校ではなく、実社会であるあなたたちは、基礎以上の、実践的な勉強をする必要があります。
基礎以上の実践的な勉強をできる環境の核心は、教材や設備が整っているなどという学校広報にありがちな中身なのではなく、教員自身が日々自己研鑽を積む学校であるかどうかということです。
学校の最大の財産は教員です。
先生が学ぶ姿勢のない学校で、学生が学ぶなどということはあり得ない。自ら勉強しない先生に「勉強しろ」と言われて誰が勉強する気になりますか。そんなことはありえない。
教えるということは、教える者自身が自ら学ぶということです。それがわれわれの確信です。
流れの速いインターネット時代の今日において、教える=自ら学ぶということはますますその核心を露呈しつつあります。
教室でも教室外でも毎日のように今日の授業の成否を教員自身が問うている学校は私どもの学校以外には存在しません。
その意味で、みなさん、よくもわが学園を選んでくださった、と感謝しております。“感謝”というよりは、広報的な営業が目立つ専門学校選択にあたって、よくも実質を選んで頂いた、と(失礼ながら)“評価”しております。
ぜひ安心して学んで頂きたい。絶対の自信を持っていますし、今後の皆さんの成長を楽しみにしています。
第二に、若いみなさんは、器用な人物になるな、ということです。重宝がられる人間になる必要はないと、私は言いたい。
大学生と専門学校生との違いは、「コミュニケーション能力」だとか「自己表現力」の有無だとかよく言われます。
専門学校生は知識や技術はあるが、コミュニケーション能力だとか自己表現力がない。そうよく言われます。
大学生でさえ、そんな能力はあまりないのですが、それ以上に専門学校生はそういった能力に欠けると言われています。
なぜか。それは専門学校生は、朝から晩まで学校の教室に閉じこもり、勉強ばかりして街に出ることがないからです。
その半面、授業にまじめに出ないでアルバイトに走ったり、合コンに走ったりしている大学生の方がはるかに「コミュニケーション」能力や「自己表現力」を培う機会を多く持っている。学ばなくても、放って置いてもそんな能力はつくようになっているのです。
しかし心配することはありません。若い頃から話のうまい者にろくな人間はいません。
そもそも、コミュニケーションも表現力も、〈何を〉伝えるのか、〈何を〉表現するのか、その「何」なしには、空虚なテクニックに過ぎません。伝えたい中身が形成されていくからこそ、コミュニケーションや表現力が(自然に)必要となるのです。
若いみなさんが心がけることは、まずその〈何を〉の中身を形成することです。テクニックが足りないと嘆く前に、中身が欠けている、中身が足りないことをよくよく自覚することです。
わが専門学校の2年間、3年間は、みなさんのちょっとばかり生意気になりかけた中身についての自信、つまり“知ったかぶり”をことごとく打ち砕くためにあります。
日々研鑽を積んでいる教員が、これでもかこれでもか、と練りに練ったカリキュラムがみなさんを待ちかまえているわけです。
なぜ、こうも私は知ったかぶりをしていたのだろう、なぜこうも私は物事を知らなかったのだろう、そういった連続の2年間、3年間がわれわれのカリキュラムです。
知ったかぶりを乗り越えて中身自身を形成すれば、おのずから本来の〈自信〉というものが生まれます。これだけは誰にも負けないという自信が自然に生まれます。それが他人からみれば、〈信頼感〉に変わっていきます。それこそが、本来のコミュニケーション能力、表現力です。コミュニケーション能力、表現力というものはテクニックやノウハウとは無縁のものです。
若い人というものは、だから外から見るとどこか偏っているものだし、危なっかしく見えるものです。それはどんな外皮もまとわずに中身から成長しようとしているからです。それでいいのだと私は思っています。
年を取ると、外皮(形式)ばかり気にして内容がなくなっていきます。
だから、若いあなた達は、かっこうなんて気にすることはない。「挨拶をしない」「マナーをわきまえない」「言葉使いも知らない」なんて、年寄りに怒られても気にせずにがむしゃらに勉強してください。
〈人間〉は若者の中にこそ引き継がれていきます。年寄りの言うことなど気にする必要はありません。のびのびと勉強して頂きたい。
最後、第三に、みなさんの将来についてお話しして終わりにします。
みなさんは、自分の将来と過去との関係について考えたことがありますか? 普通、人は、過去があっての未来、過去があっての将来と考えています。努力があって将来の花が咲くと。過去が将来の“原因”だと。
しかし、それは逆です。
人間の時間は、物理の時間と逆行します。
将来があって、過去があるのです。
たとえば、イチローは大リーガーとして成功しました。
そうすると、「そう言えば、あの子は生まれたときから、ボールを握ったり、投げたりするのが好きだった」と言う両親や家族がテレビに出てきたりする。おばあちゃんや近所のおばさんまで出てくる。イチローを知らない人までもがいつのまにか親戚になっていたりする。
けれども「あの子は生まれたときから、ボールを握ったり、投げたりするのが好きだった」なんていう事実は、イチロー以外の“普通”の子供でもいくらでもいます。イチローがもし水泳選手になっていたら、「あの子は水遊びが好きだったよね」となるに違いありません。
いずれにせよ、ボールに興味を示したり、水遊びに興味を示したりすることは、ほとんどの場合、どんな人間の過去にも存在しているものです。その理屈で言えば、私だってイチローになれたに違いありません。
どんな過去であってもすべてのきっかけ(将来から見える成功のきっかけも失敗のきっかけも)は存在しているものです。探そうと思えば、どんなネタでも存在している。それが人間の過去というものです。
もしひとりの人間の過去の“事実”ということで言えば、どんな人間であってもひとりの善人に仕上げることもできれば、ひとりの悪人に仕上げることもできる。
過去こそが(すべての人間に)平等に与えられている(それに反して未来こそが人間に差異を生じさせているのです)。
デカルトは、「ボンサンス(良識)は遍く平等に与えられている(partage)」と言いましたが、私なら、「過去は遍く平等に与えられている」と言いたい。
たしかに、振り返ればどんなにジグザグの道であっても、人の道は一本道です(たしか国木田独歩がそんなことを言っていたような気がする)。だから、因果があるように見える。この過去があって、この現在や将来があるというように。振り返れば、足跡は幽霊でもない限り連続しているのですから。
しかしそれは(結果論として)振り返っているからであって、実際の道程は、目に見えない、先の見えない選択の連続です。
ある時には成功すべくして成功した、ある時には失敗すべくして失敗した、というように〈自伝〉は語られる。
しかし何度でも先の見えない曲がり角はある、どんなに華々しい成功にも危機はつきまとう、どんなに致命的な危機にも成功の芽は潜んでいる。
実社会の日々で言えば、ほとんどの選択は、どちらを選んでも正しい、どちらを選んでも間違っている。そんな選択の連続です。正しいからこっちだ、なんて“美しい選択”は企業経営の決断にはほとんどありえない。ビジネス書の成功物語は、すべて結果論にすぎない。まさに“物語”なのです。
イチローのように大成功した人であっても、たぶん毎日毎日もうやめたい、もうこれで終わりにしたいと思うことの連続でしょう。
それは連続ではなくて、むしろ断絶の連続なのです。前人未踏の大記録なんて達成した時には、もうその日に引退したいと思ったに違いありません(確かそんなことを実際にも言っていました)。
だからこそ彼は現役でいられるのです。決して振り返らない。業績や実績にそして自分の過去に溺れない。
振り返るというのは、自分で自分にピリオドを打つということです。〈自伝〉を書く人は、したがって振り返る人、もう前を向く意味のない人、つまり終わった人であります。
振り返らない人だけが、〈現役〉であり得る。つまり、彼は前を向いているということです。
「前向きに生きる」。
月並みな言葉ですが、いい言葉だと私は思います。
前向きに生きることが、自分の過去の本来の意味を解放する。過去はまだ存在しないもの、これからやってくるものなのです。
それは、決して最後まで〈自伝〉を語ってはならない、永遠に〈自伝〉を語らないということです。そうやって、イチローは〈国民栄誉賞〉を拒んだ(本当は私はイチローが好きではないのですが)。
どうかみなさん、「前向きに生きる」ということの意味をしっかりつかんでください。
入学式の言葉として、これほどふさわしい言葉はないと思って、私は、この言葉をこれから入学する皆さんに贈りたいと思います。
本当に入学おめでとうございます。これをもって祝辞に代えます。
(2005/4/7)
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