2004年度卒業式式辞 ― 努力する人間になってはいけない 2005年03月16日
やっぱり何度やっても式辞は、自己嫌悪の連続。いつも2度とやりたくない、と思う。講演などいくら慣れていても、式辞は全く別次元。自己採点は2、30点。教員の採点では70〜80点が平均。企業の後援会の方がひとり近寄ってこられて、「毎年楽しみに聞いています。身につまされることが多くて」と感想を伝えてくださったのが、せめてもの救い。一応、全文掲げておきます。実際に話したことは、この8割くらいです。『芦田の毎日』の読者の方にはすでに周知のテーマですが。御勘弁ください。
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卒業おめでとうございます。
保護者の方々、来賓の方々、お忙しい中お越し頂いてありがとうございます。
学生、教職員一同に成り代わりまして、感謝申し上げます。
私は、3年前には(3年制の建築工学科の人たちの入学式の時には)、インターネット時代が加速化し、仕事の組織が大きく変化するといいました。
少数精鋭の組織がビジネス全体を動かしていく、と言いました(http://www.ashida.info/trees/trees.cgi?log=&v=612&e=msg&lp=612&st=0)。
2年前には(建築工学科以外の2年制の人たちの入学式の時には)、社会というものは、同質的な学生の集団と違って、年齢や経歴や経済的な境遇が異なる様々な人と出会う場所で、そういったところに卒業後ただちに飛び込んで仕事をしていくには、かなりの覚悟を決めて勉強をする必要がある。これまでの教科書的な知識の勉強と違って、実践的な勉強が必要になる、と言いました(http://www.ashida.info/jboard/read.cgi?num=143)。
そしてそのみなさんたちを今日の卒業式に迎えています。
入学式と卒業式は、この学校の最初の授業と最後の授業。そう思って私の最後の式辞を聞いてください。
今テレビではライブドア社長(ホリエモン)の話が盛りですが、私はこの騒動をこう考えています。
彼は「メディアITファイナンシャル企業」として世界一になるんだ、と公言しています。これが本当にそうなるのかどうなのかは別にして、現在の企業ではライブドアのような小さな企業でも世界一を目指すビジョンと気概を備えているということです。
小さな会社であっても、世界一を目指す気概がないと生き残っていけないということ、それが彼の騒動から私が学ぶことです。
これは、世界一位にならないと意味がないということではなくて(一位がいれば二位もいるし三位もいるのですから)、世界一を目指そうとする組織の体制や人材の志気がない企業は生き残っていけないということを意味しています。体のいい“棲み分け”もセグメント主義もその世界はもはや終焉を告げて、世界大の下克上の時代に突入したというのが、ライブドア騒動の、私の感想です。
一言で言えば、それくらいに競争は激しいということ。グローバル化とは競争の激化ということです。「そこそこの企業」「実績とブランドに依存する企業」では生き残れないということです。
世界一を目指さない企業や人材は生き残れない、そんな社会に皆さんは出ていくのです。
では、企業や組織を世界一にしていくためにはどんな人材でなければならないのか少し考えてみましょう。
この間、TBSのTVプロデューサーとお話しする機会があって、彼と、ゼークトの組織論を思い出しながらこんな話をしていました。
人材には以下の四つのパターンがある。
一つ目は、怠け者だけれども目標を達成する人
二つ目は、がんばり屋で目標を達成する人
三つ目は、がんばり屋で目標を達成できない人
四つ目は、怠け者で目標を達成できない人
この四つです。
この四つの人材の中で、どの人材が有害な人材なのか(私も他人ごとではないのですが)?
組織の中で一番大切なことは、目標を達成することです。
四つの人材はどれもこれも目標を達成するかどうかに関わっています。
さてどうでしょうか。
答えは、三番目の人材、「がんばり屋で目標を達成出来ない人」です。
組織の中ではいくらまじめで努力をする人でも目標を達成出来ない人は評価されません。
「結果ではなくてプロセスが大切だ」と言ってもそれは目標を達成するためにはどんな方法(プロセス)が必要なのか、という観点からのみであって、やはり目標達成の大切さに変わりはありません。プロセスが大切なのは、目標達成を偶然的なものにしない、継続的なものにするためなのです。
したがって、まじめで努力を重ねる人でも、目標を達成しないからには評価されない。上司からも周りから相手にされないようになってくる。
こういった人は、上長や周囲の人の言うことをなかなか聞きません。
なぜか?
怠けるつもりもないし、他の社員が遊んでいるときにも仕事をしているし、人より朝早く来て、誰よりも帰社する時間が遅いくらいに仕事をしているのに、なぜ、その自分が怒られなくてはいけないのか? ということが必ず前面化するからです。
最後には、「これ以上頑張ることなどできない」。「私に死ねというのか」「クビにでも何でもしてください」ということになる。
要するに、目標達成出来ないと、こういった人は、もっと働かなくてはいけない、というように(まじめに)反省しますから、勤務時間がどんどん延びていく。誰よりも早く来て、誰よりも遅くまで残って仕事をする、というのはそういうことです。最後は「死ねというのか」ということになるのです。
最後には組織や指導者を恨むようになる。「こんなにがんばっているのに」というように。組織内のコミュケーションが空回りするようになってくるのです。
こんな人を組織が抱えていたら大変です。
指導する側も気を使う。すべてが裏目に出るからです。どちらの善意も悪意に転化しつづけることになります。
だから答えは三番目です。
一番目は指導者の資質です。〈今〉ではなくて〈先〉を見通せなければならない指導者が毎日ルーティンワークであくせく働いていたら、先を見通すことはできません。
二番目は指導者の側近です。遊び心のある指導者を実務面から支える人間がいないと組織は安定しません。
四番目の人材は、最初から回りも期待していない、自分にも期待していませんから、人に迷惑をかけることがありません。いつの間にか組織からいなくなります。
さて、三番目の人材は、なぜ目標を達成出来ないのでしょうか?
それは自分の仕事の仕方を変えないからです。
仕事の仕方を変えて目標を達成しようとはせずに、時間をさらにかけて達成しようとする。これが努力をする人が目標を達成出来ない理由です。
努力することが自分の唯一の武器(取り柄)だと思っている。
努力は時間です(努力=時間)から、努力すればするほど、疲弊する。
目標が高くなればなるほど息苦しくなる。
毎日がつらくなる。
そして最後には「死ねという気か」となる。
それもこれも自分の仕事の仕方を疑わないでいるからです。
これまでもよりも時間をかければ目標が達成出来ると思っている。この時間主義を努力主義と呼んでいいのですが、これでは仕事はできません。
特に企業は時間を嫌います。時間をかけることが企業の美徳ではなく、いかに短時間で高度な目標を達成出来るかが企業の見果てぬ夢だからです。昨日2時間でできたものを今日は1時間で果たそう、そう企業は考えます。努力主義は昨日2時間でできなかったから、今日は残業して(無理して)4時間でやり遂げようとします。全く逆のことをやっているのが企業に於ける努力主義です。
わが学園では、すべての授業時間で定時開始前に教室に先生が入室していること、という目標=ルールがあるのですが、朝9:20に始まる一時間目の授業についてはなかなか守れない。
なぜか?
1時間目の授業の資料を朝印刷しようとするからです。朝1時間以上早く、8:00には学校に来て印刷しようとする“まじめな”先生たちがわが学園にはたくさんおられるのですが、でもそんなときに決まってコピー機やリソグラフ輪転機が故障してうまく動かない。利用者同士で機械を奪い合うこともある。
こういった問題を「朝コピーは混み合います。気を付けましょう」とか「前日までには資料を仕上げておきましょう」などといくら張り紙を用意して注意してもルール厳守出来ない。「気を付けましょう」などという末尾に「しょう」の言葉が付くルールで守れるものなど全くないのです。時々注意すると、何も私の所為で「遅れているのではない」「好きで遅れているのではない」「それなら資料なしの授業をしてもいいのですか」「何で資料をたくさん作って遅れるところだけを捕まえて私が怒られるのですか。何も作らず手ぶらで教室へ行く先生よりよっぽどましでしょ」などと逆に“脅し”をかけてくる職員もいる。善意と努力が招来する亀裂はなかなか根深いものがあります。
こういったことをくり返す内に何度も学生であるみなさんにご迷惑をおかけして、始業時間が遅れがちでした。今から2年前くらいのことです。
そこでみんなで考えて、「朝コピー禁止」というルールを作りました。9:00〜9:30まではコピー機を使ってはいけないというものです。
「後は、明日の朝にしよう」という朝努力主義をそこで断ったわけです。気を付けて使いましょう、ではなくて、端的に使わない、というものです。
そうしたら、授業開始はほとんどの授業で遅れないようになりました。小さな目標ですが、その目標を達成出来るようになりました。
要するに気を付けよう、心得よう、という努力主義を変換して、別のルールを作ったのです。仕事を時間的にフォローするのではなくて、仕事の仕方そのものを変えた、ということです。
仕事は人間がやることですから、「心得」ばかりを叫んでもできないことはいくらでもあります。むしろ「心得」や「まじめさ」や「努力」や「時間をかけること」ではできないことの方が仕事には多いのです。
一生かかっても(命をかけても、クビをかけても)できない人はできない。ビジネスとは厳しいものだというのは、努力ではできないことがたくさんあるということです。
それは、〈才能〉がすべて、あるいは〈能力〉がすべてということではありません。
努力主義は実はエゴイズムであって、自己のやり方を変えない。努力する人は謙虚なように見えてそうではない。むしろ自分に固執する偏狭な人なのです。
目標達成ということについて重要なことは〈変える〉〈変わる〉ということです。「朝コピー禁止にさしたる努力はいらない。前日までに印刷を終えるという点では努力が必要ですが、そこでは努力の質が変化しています。それは必ず目標を達成出来る努力だからです。
1回、2回と失敗をくり返すとき、同じ目標を何度も達成出来ないときには、その方法(今のやり方)は間違っている、と判断すべきです。つまりその方法で何時間やっても、一生かかっても、どんな天才でも目標は達成出来ないと判断すべきです。
組織や企業は若いあなた達の1回や2回の失敗は許してくれますが、3回、4回と続くときにはもう待ってはくれません。その時には違うやり方、違う方法を考えないといけない。
これから皆さんは様々な同僚や上司に囲まれて、怒られて、努力して、疲弊して、「何でこんなに努力しているのに評価してくれないんだよ」と叫び続ける日々を一度ならず迎えると思います。そんなときには、深呼吸して立ち止まって、やり方を変える、自分のスタンスを変える、自分を変える、そのことに思いをはせてください。
毎年言っているのですが、数年前私は六本木にあるIBM社を訪問したことがあって、そのとき社員の机の上に、THINKと書いたシート押さえの文鎮(木製のペーパーウエイト)を見つけました。すべての社員の机にそれがおいてありました。
気になって、「これちょうだい」と頼んで今では校長室の私の机の上に置いています。このTHINKはもちろん動詞の命令形、「考えろ」です。
そして、この言葉の意味はもはや明確です。
「考えろ」は「変えろ、変われ」ということです。THINK=CHANGEです。
「考えろ」の反対語は、従って「行動しろ」ではありません。IBMの言うTHINKとは、考えてばかりいないで行動しろ、まずは行動だ」という場合の理論的な思考のことを言っているのではなくて、平たく言えば、工夫をしろ、やり方を変えろ、ということです。
だから〈努力する〉の反対が、〈考える〉ということです。THINKの反対語は「行動しろ」ではなくて、努力しろ、ということなのです。逆に、努力する人は考えない人なのです。
皆さんは〈努力〉に逃げる人ではないはずです。努力というのは、仕事の真の課題を隠してしまいます。努力に逃げてはいけないのです。そのためにこそ、この2年間、あるいは3年間の専門的で、実践的な勉強を重ねてきました。
学識のある人、実践的な人とは、〈努力をする人〉ではなく、〈変える人〉であって、そのための勉強をあなた方は積み重ねてきたのです。
毎日、毎日教室を回ってみなさんの熱心な授業への取り組みを見てきた校長として私はその自負を持っています。その自負を持って、その期待をもって、私もまたこの卒業式を迎えることができました。ぜひ自分のこれから入社する企業を世界一の企業にして下さい。企業を日々変えて、世界一の企業にしてください。
卒業おめでとうございます。今日の日を心から祝福し、卒業の式辞としたいと思います。
※この式辞は、私の著作、2013年9月2日刊『努力する人間になってはいけない ― 学校と仕事と社会の新人論』(ow.ly/oFcp1)に補筆されて収められています。ご関心のある方は、ぜひそちらもどうぞ。
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この式辞、いいですね。感心しました。
とても立派で力強く、人生の糧になる式辞です。
これをライブで聞いていた学生は幸せです。自戒をこめてそう思います。
もうクリックするのはやめようと思いつつ、また、次の記事をクリックしてしまう。全部は読まないと思うけど、でも、よんでしまいそう。。。。
私の部下にも伝えたい。
いい式辞だと思います。