返信: 車椅子は、〈外出〉のツールではない。 2005年02月13日
以下のような返信をさきほど(2月12日23:59)、読者の方から頂きました。全文再録します。
車椅子の話(http://www.ashida.info/jboard/read.cgi?num=1014.1013.1)、興味深く拝読いたしました。
余計なお世話でしょうから、読み流していただいて結構ですが、まだ車椅子を買うのは、芦田家においては、メンタル面でまだ早いのではないでしょうか。車椅子が入った生活が今はイメージできていない状況だと思うので、めがねのように車椅子を利用している身からすると、いきなり購入する前に、車椅子をレンタルして、少しずつ道具としてどのように取り入れたら便利か、検討してみてはいかがかと思いました。
私自身も、自分の車椅子を購入するまでには、だいぶ時間がかかりました。車椅子があったほうが便利な状態から、実際に自分の車椅子を持つことを納得するまでには、何年も間がありました。
私は、歩けることが車椅子生活より、ずっとすてきなことだとは思っていません。といいうより思わなくなったというほうが正解かな。まったく普通の状態で歩けるのであれば車椅子よりよいのは当然ですが、歩行に不自由がある場合、怪我の可能性、歩くことの苦痛から行動が制限されることを考えると、それをおしてまで歩くことが善ではないと私は思います。
また、車椅子に関していえば、自分で自由自在に操れない限り、車椅子はみじめです。どんなにかっこいい車椅子でも、人に押してもらわない状態であれば、とても悲しいものです。
車椅子の基本は、当事者が自分の意思で好きなときに好きなところに移動できるようになることだと思います。手動を手に入れても、自分で自由に移動できなければ、車椅子に乗ることは恥ずかしく、惨めなものです。
私の場合、電動車椅子を手に入れたことが大きな転機になりました。足が不自由なことによる惨めさ、劣等感、消極的な気持ちはすべて吹き飛びました。芦田さんもご存知のように、私だって電動車椅子でなければ、テラハウスで教えることなんて不可能だったわけで、今、買い物も仕事も出かけるのも自由自在に日々の生活を満喫できるのは、電動車椅子があるからです。今は都心にいることもあって、電動車椅子で電車やバスに乗って、どこにでも自由に出歩いていますから。
電動車椅子は、私は、障害者を障害から解放する本当に大きなツールだと考えています。
智美さん(私の家内の名前:芦田註)が、自由を再獲得するための道具としての車椅子は、おそらくは1台では不十分で、何台かの使い分けが必要になるかもしれません。
車椅子は、ひとつだけですべての問題の解決には至らないと思います。今の状態は、公費負担で車椅子を決定するという段階なのかもしれませんが、それはそれとして進めることにして、同時に、外出用簡易電動、旅行用の簡易車椅子(超軽量)等を少しずつ試されるといいと思いますよ。
参考までに、かなり重い障害を抱えながら、社会人として社会参加をしている車椅子ユーザーの多くは、機能別の車椅子を何台も用意し、生活の中で上手に使い分けています。
メールで私の真意がどこまで伝わるか自信がありませんが、智美さんが上手に病気と付き合い、元気になられることを心より願っています。
あ、それから、超高層マンションで理事をやっておりますが、隣の家の声や音が響くという苦情は聞いたことありませんよ。28階に住む人が14階にすんでいる人より出不精になるなんていうこともないですね。いまどきのエレベータは早いですから。地震や風も別に問題ないし、ゆれを感じることも32階ぐらいではないようで、大変快適です。問題は、ご指摘のようなことではなく(他の超高層マンションでは芦田さんのおっしゃることがスタンダードなのでしょうか?)、高層階は携帯電話の電波が通じにくいこと。この点も最新のマンションでは対応策がなされているようですが、2年前に完成したわがマンションでは施工時期に間に合わなかったようです。
まあ、高いところが好きかどうかは単に好みの問題だけだと思います。ただし「買ってはいけない」といわれるほど、悪くはありませんよ。実際にすんでみて、こんなに快適だったのかと思うことのほうがずっと多いですね。(全文引用、ここで終わり)
などとメールをいただいた。「読み流して」みようかなと思ったが、誤解されていることだけにしぼって、コメントを入れておく。
私は、私が障害者であれば、車椅子を「社会参加」のツールにしようとは思わない。そもそも〈外〉に出ようとも思わない。足の悪いものが、なぜ出歩く必要があるのか。そんなことに関心のあること自体が不自由な証拠。ファーブルだって、どこにも行かずに世界大の真理を見出している(大いなる“社会参加”をしている)。
世界は、微分にも積分にも耐えられるようにできている。それが人間が生きるということ。何も不得意なことに関心を持つことはない。障害者が「障害者である」のは、不得意なことに関心を持とうとすることにある。私にだって、できる、というように。まるで、歩くことができなくなることは、〈外〉の世界を見ることにとって致命的な出来事であるように。そんなことあるわけがない。むしろ身体的な拡大願望自体が、障害者における真の欠損(真の障害)なのである。
人間は生き物なのだから、どんな“障害”があっても、そのつど有機的に全体として存在している。それは人間観としては最低限の(レベルの低い)機能主義的人間観にすぎない。車椅子が必要だとすれば、それは生きること(最も狭い意味での)そのものに関わるツールとして以外にはない。それは人工呼吸器のように使われるのではない限り、ツールでも何でもない。家内がもし積極的に車椅子を考えるとすれば、トイレに行くときくらいは自分で行きたい、くらいのことでしかない。それは〈外出〉とは全く関係のないことだ。
だから車椅子が(人間としての)外出のツールであるはずがない。人間は手も足もなくなっても、そしてまた監獄や無人島に閉じこめられてさえも社会的であり得るし、世界的であり得る。そしてまた、世界を飛び回っていても、恵まれている肉体を有していても、孤立し内閉していることもある。だから、車椅子なんて、そういった人間の社会性とは何の関係もないものです。
ついでにもう一つ、超高層マンションの問題(http://www.ashida.info/jboard/read.cgi?num=408)は、住まうことに於ける聴覚問題として取り上げたのです。隣家のノイズの問題は、技術が進展すれば解決する問題に過ぎません。しかしそうなればますます私が提起した問題は深刻になります。一切の“ノイズ”から遮断された空間が果たして快適な空間かどうか、ということです。あなたが〈内部〉と〈外部(外出)〉とを形式的に切り分ける傾向も、あなたが超高層の住民であるからかもしれません。それ自体が、超高層住民の“被害”なのです。
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