聴覚は理解の根源 2005年01月16日
微少な虫の音が聞こえるか聞こえないか、微少な雨音が聞こえるか聞こえないかが、「人生に影響を与える」(http://www.ashida.info/jboard/read.cgi?num=408)というのは大げさじゃないの? と返事をいただいた方が何人かおられたが、大げさではない。デープスペクターという変な外人がいるが、彼なんかは、もっている日本語の語彙や知識ではかなりのものだと思うが、発音(イントネーション)はいつまで経ってもアグネスチャンか欧陽菲菲なみだ。たぶん死ぬまであれ以上に日本語は上達しない。一方で日経サテライトニュースに出てくるエコノミストで、2,3年くらいの日本滞在にもかかわらず、達者な日本語をしゃべれる人もいる。これは明らかに耳の問題だ。しかも本人の努力や能力の問題ではない。デープのもともとの耳がダメなのだ。たぶん幼児期の聴覚環境の問題なのである。
私の経験での印象的な話もある。私が大学院の川原栄峰(http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/search-handle-url/index=books-jp&field-author=%E5%B7%9D%E5%8E%9F%20%E6%A0%84%E5%B3%B0/250-1279621-5060241)ゼミに参加していたとき、川原先生が(ハイデガーの『存在と時間』ドイツ語版の音読をさせながら)参加ゼミ学生の一人に「○○さんは、どこ出身?」と聞いたことがある。なぜ、そんなことを聞くのかな、と思ったら、「三重県(か奈良県か和歌山県かいずれか忘れたが)生まれの人はドイツ語の発音ができないのよ」と彼が言ったので驚いたことを覚えている。このいずれかの県でかつ高層マンション生まれなら、ドイツ文化はほとんど理解できないことになる。ひどいことを言うなとその時には思ったが、語学というのは、ほとんど聴覚問題だ。
もう一つの話は、東京芸大の私の知人の女性の同級生が、二人が乗っている山手線の中で音階を取っていたので何をしているのかなと思ったら、電車の走行中の音を音階に直し続けていたらしい。これは「生きている世界が違う」と思って、その知人はその後、音楽家の道を諦め自動車評論家になってしまった。エンジンの音くらいは違いが聞き取れているのかもしれない。
微少な音が聞こえない人は、いつまで経っても(どんなに努力しても)聞こえない。そして楽器でも虫の音でも、そして自然界のあらゆる音も、それらは人間の声のバリエーションだと思った方がいい。その逆ではないのだ。人間の声こそが、波形も周波数も超えてもっとも複雑な、微少な音を出しているのである。それはあらゆる〈理解〉の根源をなしている。これが人間形成に影響を与えないわけがない。ちょっと前に、赤ちゃんにイヤフォンで音楽を聴かせて(寝かしつけて)いるコマーシャルがあったが、これなどは精神障害を故意に誘発しているとしか思えない。バカな母親だし、コマーシャルも非常識そのものだ。
都市生活では、戸建て住宅やマンションの一階に暮らしていても、サッシで部屋を締めきり、外界の音を遮断して生活している場合が多いが、これではグローバル時代を生き抜く人材を作ることはできないし(デープスペクターが尊敬された試しはない)、何よりも人間の豊穣な声(微少なメッセージ)を聞きとることができる人材にはなり得ない。
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