コミュニケーションとは何か? 2005年01月15日
家内の病気(http://www.ashida.info/jboard/read.cgi?num=124)のために、私が“代わり”にやっていることは、何も炊事(http://www.ashida.info/jboard/read.cgi?num=321)や掃除(http://www.ashida.info/jboard/read.cgi?num=380)ばかりではない。金魚の餌やり(水槽掃除)とテラスの植栽の水やりも私の“仕事”だ。
餌やりは、毎食の(私たちの)夕食時とほぼ同時かその前後。水やりは週に一回(土曜か日曜)、南側東テラスはバケツ四杯分、南側西テラスはバケツ2杯分。ホースで水を出す方が楽だが、その際の最大の問題は、水の分量がわからないこと。バケツの方が端的にわかる。ひょっとしたら任意のホースの先に付けるだけでその水量がわかるメーター(“ホース水量計”)を発明したら特許を取れるかもしれない、なんて思いながら、毎週水やりをしている。
金魚や植栽にせっせと餌をやったり、水をやったりするのを病気の家内がベッドから見ているたびに(http://www.ashida.info/jboard/read.cgi?num=407.124.71)、「金魚も紅葉(私の趣味は紅葉と竹)も幸せね。忙しくて疲れているお父さんにいつも手をかけて世話してもらって」なんて言う。私はそのたびに「そうだよ。あなたは『喉が渇いた』とか『お腹が空いた』とか『痛い』とか『つらい』とか声を出すことができるけれども、金魚も紅葉もそんなことを口に出すことはできないからね。だからあなたのことよりも心配なのよ」と答えることにしている。
これは冗談ではなくて、本気だ。特に水やりなんかは、土日に疲れがたまって、2日間寝続けているときにはついつい忘れていたり、思い出しても「まあ、いいや。なんとかあと1週間我慢してくれ」と気づかない振りをしている場合もある(テラス側を故意に見ないようにしている)。そんなときには、その一週間(月〜金)はいつも“良心が痛む”。ウィークデイに、草木の世話までする暇と余裕(心の暇と心の余裕)は全くないから、余計に“良心が痛む”。紅葉は私を恨んでいるのではないか、と。
紅葉は何も言わない。特に秋を超えて、葉が落ちると、まるで死んだ枯れ木のように紅葉は沈黙している。この枯れ木の沈黙を前にしては、水やりをするのが馬の耳に念仏を唱えるかのように空虚な行為であるように思える。私は何をしているのだろうか、と。もっと他にやることがあるのではないか、と。
しかしこの沈黙は、無視することができない。というよりこの沈黙が怖くてたまらない。というのも完全に死んでいるかのように見えるその紅葉が5,6月頃には葉が蘇生しはじめるからだ。このときにはほんとうにびっくりする。おいおい生きていたのかよ、と。醜い枯れ木の私に水をやり続けてくれて有り難う、と言っているかのように瑞々しく蘇生する。葉が蘇生するその時期はほっとする瞬間なのである。草木を愛でる気持ちなど私にはみじんもない。「ほっとする」というのが正直なところ。
だから枯れ木の紅葉に水をやらないことは、蘇生した紅葉に水をやらないこと以上に大きな恨みを買うような気がして怖くてたまらない。私は、秋の紅葉(こうよう)を期待して水をやり続けると言うよりは、むしろ(冬の期間は)無機的に水をやるように心がけている。夏の道路に水をまくように無機的にやっている。枯れ木の中に、紅葉(こうよう)のもみじの心が潜んでいる、なんて思ったら怖くて水をやれないからだ。
金魚なんて、紅葉に比べればもっと心がなさそうだ。バカそのもののように見える。しかしバカほど恨みを買うと怖いものはない。だから私はむしろ愛情がないが故に、金魚へ餌をやり続けている。愛情がないものほど、大事にしておかないと大変なことになるからだ。自分が夕食を食べるときには、必ず金魚にもあげることにしている。自分だけおいしそうに食べている、なんてバカな金魚に思われたら、何を仕返しされるかわからないからだ。バカでない金魚(そんな金魚はいないが)ならば、少しは「疲れているから、私のことなんか気を遣う暇がないんだ」と思ってくれたりするが(それに期待できるが)、バカな金魚は、そんな配慮ができないからだ。特に私の家の金魚鉢は、食卓の近くにある(家族みんなの食事風景が常時見える)から、余計に恨みを買いやすい。だから食事をしているときにも(餌をやらないと)落ち着かない。
私は、コミュニケーションというのは、いつも無償のもの(=片方向)だと思っている。お互いが理解し合うなんて、最低の貧相なコミュニケーションだ。帰ってこない(=返ってこない)から、配慮、無償の配慮が存在するのである。〈アンケート〉を取ったり、〈市場調査〉をしたりして企業や組織の行動を決定するというのは、実際には《マーケット》を愛していない証拠にすぎない。そんなことでは《マーケット》と“会話”はできない。実際の《マーケット》は、《マーケット》の沈黙(無反応)の中にある。見返りを期待しないで《マーケット》に向き合うことが、《マーケット》と会話する最大の方法(無方法)だ。「マーケットの声に耳を傾けろ」「ニーズを探れ」「顧客優先」なんて言うリーダーほど市場や顧客の声を無視している奴はいない。そんなものはすべて存在しないものなのである。
ところで、もし紅葉が開花するのが、4季のサイクルではなくて私の死よりもより先の(死後の)出来事だとすれば、それでも私は水をやり続けるだろうか? 金魚が私のやる餌を一粒も食べないとしても、私は餌をやり続けることができるだろうか? 至高のコミュニケーションはそのことに関わっている。
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