理想科学のホームページはいつ直るのか? 2005年01月06日
今日は、学校の仕事始め。早速、例の理想科学の尾中さん(たち)http://www.ashida.info/jboard/read.cgi?num=399.397.2 が「新年のご挨拶」とやらに来ていたが、まだ例のホームページが直っていない(http://www.ashida.info/jboard/read.cgi?num=400.397.3)。
外注している業者に、その件を聞いたら、なにやら「フレーム」という技術を使っていて、「更新のしやすさ」がそのメリットらしい。
何のことはない。一々の頁にアドレスを振っていたら、商品が変わるたびにアドレスをふり直さなければならないから邪魔くさい、というだけのことである。「更新のしやすさ」とはユーザー側に立った者の「理由」ではなくて、単に業者の都合にすぎない。そもそも「フレーム」なんて技術はもはや過去の技術だ。
もう一度言いますが、ホームページはすべてのページがホームページであって、階層を辿らないと行き着けないページはホームページとは言いません。ホームページが画期的なメディアであるのは、階層化(読む順序を付けるの)は、供給側の権利ではなくて、その情報を受容する側の権利であることを徹底したからです。
ホームページのリンク(順序付け)を「ハイパーリンク」(テッドネルソン)と呼ぶのは、供給側からすれば、「ハイパーな」=「常軌を逸した」階層化を受容側が行うからです。
もちろんこれは旧来のメディアでも起こっていました。書物もまた、後ろの「著者略歴」から読んだり、絵や写真のある取っ付きやすそうな途中のページから読んだりして、「行儀の悪い」=「ハイパーな」読み方をしたりもします。その意味ではページを自在に往き来できる書物もハイパーテキストの一種です。しかしホームページはもっと自在に、(書物のように〈ページ〉という紙の単位を超えて)言葉の一つ一つ、絵の一つ一つにハイパーリンクを張ることができます。〈理解〉の極小の単位にリンクを張ることができるのです。
それは単に技術の勝利である前に、人間の理解過程そのものに属しています。人間の〈理解〉とは、必ずしも順序だったものとは言えない。むしろ順序や体系は、いつでも〈理解〉が一回りしてからやってくるものであって、実際に人間が理解するプロセスはジグザグであり、結末や本質とはほど遠い寄り道にまみれています。〈入門〉書(“始まり”の書)を書くのが年老いた(=現役を退いた、“終わり”に近い)名誉教授である場合が多いのはそのためです。
理想科学の、ホームページ業者は、「まず商品の思想を理解させるページを経てから、商品を見て欲しかった」などと自らの怠惰を下らぬ“見解”で糊塗しているようですが、しかし、人がある商品を買おうとする動機はさまざまです。
もちろんその商品思想から買う場合もあるでしょうが、機能から、スペック(諸性能)から、コストから、デザインから、スペース形状から、そしてまた人の紹介から、と、ものを買う目的やきっかけはさまざまです。こういったわがままな(=ハイパーな)動機に対応するメディアは、ホームページ以外にはありません。買う目的を“階層化する”なんてことはできない。それは買い手の市場を狭めることでしかない。現に、この理想科学のホームページは、私がせっかくORPHIS HS5000(http://www.comucolor.com/)を紹介しようとしているのにその商品自体にリンクが張れない。「フレームだから右クリックして」なんて忠告を受けるつもりは私には全くありません。ホームページは誰でもがアクセスできる状態にするべきです。
たぶん、このホームページ業者は「ハイパーリンク」という言葉の意味を知らない業者なのです。そんな業者に、会社の生死を決めるホームページを作らせてはいけません。我が学校のWEBデザイン科(http://www.tera-house.ac.jp/course/it/web/index.html)の学生で、こんなふざけたホームページを作る学生はいません。みんな私のハイパーテキスト論(http://www.ashida.info/jboard/read.cgi?num=30)くらいは理解しているからです。これを読んでも、まだその業者が「更新がしやすい」なんてバカなことを言い続けるのなら、私自身が、理想科学の社長に直訴します。こんな業者にホームページを作らせるのはやめろ、と。
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