コミュニケーションとは経験的な出来事なのではない。 2005年01月24日
「先日の『芦田の毎日』を読んで(http://www.ashida.info/jboard/read.cgi?num=407.124.71)、智美さん(私の家内の名前:註・芦田)の現状を知ることができました。わたしのお師匠さんが舌ガンを患って、それこそ東京女子医大で手術を受け、舌の一部を切り取りました。そして退院後にお会いしたら、「病気はギフトよ」と笑いながら言われました。そのことを何度も思い出しながら、智美さんは、病気というギフトを受け入れて、それを芦田さんや太郎さんに見せておられる、と思いました。なんという大きな愛だろうか、と深く思います。病気というギフトのおかげで、芦田さんの思考が深くなっている。まなざしが微妙なところまで行き届くようになっている、ような気がします」。
なんてメールが一読者から届いた。そこで、私は、「病気というギフトのおかげで、芦田さんの思考が深くなっている」と書かれて「ショックだった」と返信し、「哲学や文学という思考は、経験に影響を受けたら敗北です」と結んだ。
経験はそれ自体は万人に平等に与えられている。1秒1秒の今の累積が経験であるという意味では、経験自体は万人にとって深くもあり、浅くもあり、経験的な知識や経験的思考の深さも浅さもそれ自体平等に(多様に)存在している。だからその知識や思考に浅い、深いもそれ自体存在しない。私の毎朝、毎日の行為(経験)は、私だけのものであるように、同じように他の人たちの行為(経験)も多様であり、それ自体ですべてであり、そして完結している。だからその意味で経験は平等だ。私が“知っていること”を他人は“知らない”。同じように他人が“知っている”ことを私は“知らない”。そのように人の“知識”は経験的には平等に(そして多様に)与えられている。知識人なんて言うが、すべての人間はその意味で(人の知らないことをそれぞれ知っているという意味で)知識人だ(http://www.ashida.info/jboard/read.cgi?num=69)。
仕事というものもそうだ。〈社会〉が存在する限り、仕事(役割)も存在する。それもまた多様。ビジネスマンはビジネスマンらしいことを言う。同じビジネスマンでも企画は企画、営業は営業、経理は経理らしいことを言う。教員は教員らしいことを言う。弁護士は弁護士らしいことを言う、などなど、その意味で仕事もまた経験的だ。だから企画(の連中)が、先行投資なしには何もできないと言えば、コストを考えない企画はありえないと財務が言う。弁護士は「結局、人間、利害関係がすべてだ」などと言い始める。
しかしそんなものは、〈思考〉ではない。毎日、毎日累積していく仕事の延長上で、誰でもそう考えるようになる“思考”(日常的な浮力に抗えない思考)にすぎない。〈そこ〉に身を置けば、誰であってもそうなる“思考”にすぎない。同じように自分の妻が倒れた夫もまた急に妻の方を振り向いたりするのかもしれない。そうして急に「嫁さんを大切にしろよ」と他人に言い始める。いかがわしい“思想”だ。「嫁さんを大切にしろよ」というのは“思想”ではない。それは、そうせざるを得なくなった男の“生活”が露呈しているだけのことで、それ以上でも以下でもない。聞いたもう一人の(健康な妻をもつ)男は、しばらくすると忘れる程度の“思想”にすぎない。どんな“生活”もそれ自体の重さをもっており、対等に存在しているからだ。健康な生活もそれはそれで重い。だから他の生活との比較などできない。だからその種の“教訓”は忘れさられる。それは免許更新時に見せられる交通事故映画の“教訓”のようなものだ。
たしかに私は、家内が私よりも先に倒れることなど夢にも思わなかったが、それは私の(思考上の)不覚にすぎない。どんな経験上の振幅よりも思考の幅の方が広いに決まっていているし、広くなければ、思考(“考えること”)の意味はない。世界中(=宇宙)のどんな遠いところへの旅よりも遠くへ飛べる乗り物が〈思考〉だ。海外旅行や海外経験が多い人が〈真理〉を語ることが多いなんてことはあり得ない。
ファーブルなんてプロバンス地方の片田舎に生涯とどまったが、旅行好きのダーウィンの進化論にいまだに対抗しうる考察(「環境が動物を作るのではない。環境に対して動物が作られているのだ」昆虫記)を有している。そしてもちろん旅行好きや海外出張が多い者なら誰でも進化論を唱えることができるのでもなければ、田舎にとどまる者がそのままファーブルになるわけでもない。ダーウィンはダーウィンであるし、ファーブルはファーブルでしかない。思考の質が両者を多くの経験的な質(他の凡百の人々)から分けているのである。
たぶん、そういった経験の拡張を超える思考の拡張性の原理は死の思考にある。どんな哲学者や文学者もまともな連中は若い時期から〈死〉とまともに(極限にまで)向き合ってきた。〈死〉は経験(死は代理不可能で、自分自身が自分の死を引き受けるしかない)と非経験(誰も自分の死を経験したことはない)の臨界にあり、思考の究極の主題だからである。すべての出来事や経験は、その手前にある。だから死を引き受けるあり方を考え詰めれば、経験を相対化することができる。経験を相対化するということは、他者と向き合えるということだ。経験に縛られ、社会的に分断されている他者に向き合うことができる。コミュニケーションの最大の経験(=非経験)は、死とのコミュニケーションである。
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