楠田絵里子vs安藤優子、新春孤独対談はどうですか。 2004年12月25日
年末ということもあって、最近どこへいったのかと思っていたら楠田絵里子が小堺のお昼の番組(http://www.fujitv.co.jp/b_hp/gokigen/)に出ていた。このタレントは、いい年をして会話ができない。同じゲストのさんまにバカにされていた。
〈会話〉ができないというのは、自分の知見や意見しか言わないということだ。すべてが自分のプレゼンテーションになっている。それでは〈会話〉にならない。〈会話〉とは、まず相手の知見や意見にじっくりと耳を傾けることだ。こちらから語るとすれば、それは相手の知見や意見を聞き出すこと、深めることのためであって、それ以外にはない。自分の知見や意見にもし意味があるとすれば、それは、相手の知見や意見を聞き出すこと、深めることに資する場合のみであって、それ以外には“私見”など必要ない。
会話の最大の楽しさは、その人が世界の誰の前でもしゃべっていなかったようなこと、その人が自分自身でさえ考えてもみなかったようなことをその人自身の口から語らせること以外にはない。楠田絵里子はいつも自分の知っていることばかりを言おうとする。それが知性だと思っている。誰と話していてもモノローグでしかないものを〈知性〉とは呼ばない。
同じように夕方のニュース(http://www.fujitv.co.jp/b_hp/supernws/)を聞いていたら、今度は安藤優子(http://www.cafeglobe.com/news/interview2/048/)が、木村太郎(http://www.fujitv.co.jp/caster/kimura/ )の言うことを勝手にまとめている。勝手にまとめているどころか、反対のことを言っていたりもする。安藤優子は木村太郎の話を聞く前にその感想で何を言うか前もって決めている。安藤優子は木村太郎を出汁(だし)にしているにすぎない。木村太郎(ニュースキャスターとしては超一級の)は、こんなお調子者の女(出遅れたコンパ女)となぜ付き合っているのだろう。楠田絵里子も安藤優子も下手な歳の取り方をした(“知的”な)独身女性がそうであるように、話せば話すほど孤独を拡大している。
こういった質のトークは、たぶん、防御のトークなのだ。隙(すき)を見せまい、ばかにされたくない、という防御の意識ばかりが年齢に比例して過剰に働いている。だから〈会話〉にならない。糸井重里が、色気とは隙のことだ、と言っていたが、だからこの女性たちには全く色気がない。会話の本質とはその意味で色気なのである。
私の夢(悪夢だが)は、楠田絵里子と安藤優子を“対談”させたいということだ。“対談”にならない対談はきっと面白いに違いない。単なるプレゼンの応酬でしかない会話がいかにむなしいものであるかを楽しめる。新春孤独対談、というタイトルはどうか。
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