症状報告(52) ― 退院します。 2004年05月26日
どうやらはやくて今月末、遅くても来月あたまに、家内は退院しそうです。3月に(1年間で)4度目の「再燃」したときには、どうなることやらと思いましたが、それ以後(思ったより)順調に推移し、今は自宅での生活は車椅子なしに動けるところまで回復しました。ただし、まだ自分で食事を作るところまではいきません。まだ10分以上立ち続けることができない。ただし足以外の上半身は(“頭脳”も含めて)いたって平常です。私にとっては、依然として家事仕事は続きますが(これまでよりもヘビーかもしれない)、息子と二人で黙って食事をするよりはましかもしれません。再燃や再発を防ぐことができれば、かなりの〈再生〉が期待できそうです。
しかし、この病気(多発性硬化症)には、たぶん退院ということはありません(それがこの一年間の入院で学んだことです)。再入院がもはやなかったということがあるとすれば、この病気以外の病気で死ぬときくらいでしょう。
でもよくよく考えてみれば、「人生」そのものが大きな病です(http://www.ashida.info/jboard/read.cgi?num=162.124.21)。“退院”などもとから大きな幻想です。みんないずれにしても“大病”を抱えながら仕事をしているわけです。どんな職場でも“名医”などいないし、まして“薬”など存在していません。純粋な健康が存在しないのと同様、純粋な病気も存在などしない。
たぶん、どんなときにも気を抜いてはいけないということです。病気で入院して、退院の最後の点滴で分量を間違えて(事故で)死ぬ場合もあるだろうし、職場で“仲間たち”に取り囲まれて排斥される場合もある。生き死にというのはそういうことです。
私は、今日朝礼で(職員の前で)、〈生〉というのは20世紀的な概念だ、という話をしました。サイバネティクスも行動主義も情報科学もすべて〈生(命)〉の概念につきまとわれている(だからくだらない)、という話をしました。要するに刺激と反応の相関、つまりパブロフ主義にすぎないわけです。
そうなると〈目的〉という概念がわからなくなる。サイバネティクスは、〈目的〉という概念だけは“制御”できなかった。いつもよそから外面的に取ってくるしかなかった。だから人工知能はエキスパートシステム(目的が外から来る)としてしか機能しない。
ところが、人間だけが、〈目的〉を(内在的に)考えることができる。というより「目的を持つ」ということと「考える」ということとは同じことです。つまり生命概念のように、人間(の現在)は過去からの実績や過去との相関において存在しているのではなくて、将来から、現在を考えることができる。人間にとって〈現在〉は超越の場所であって、生の現在なのではない。
人間は、だから生きているのではない。〈思考〉というのは、〈生〉の反対概念です。人間は、生命が息吹くように〈新しい〉行動を取るのではなくて、いまだ存在しない将来の方から、つねに〈新しい〉。それは、人間が目的を持つ(持てる)からです。
あれこれと理由(パブロフ的な理由)を付けながら、「できない」「できない」「気にくわない」「気にくわない」を連発する人間は、単に生きている(あるいは生き生きと生きている!)だけなのです。だから〈生きる〉ことほどつまらないことはない。死ぬことがつまらないのと同じように生きることもつまらない。20世紀は、生命の世紀だった。21世紀は、目的(思考)の世紀。生命主義(サイバネティクス、行動主義、情報科学)は保守主義であったわけです。それがポストITの基本認識でなくてはいけません。
以上、とりあえずの“退院”報告でした。
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