校長の仕事(12) ― 〈講評〉というデザイン教育の問題点 2004年02月02日
デザインの授業では、よく作品講評が行われる。というより、作品講評はほとんど授業そのものでもある。
それぞれの学生に、(たとえば)手のデッサンなどをさせながら、教員が必要に応じて講評を行う。そういった講評を何回か(或いは何度も)経ながら、作品ができあがっていく。講評は、そのデザインの授業では指導の中心である。
しかし、私は、この講評主義に反対である。
なぜか。講評は個人指導になる。個人指導は評価が相対主義になる。それが証拠に、講評主義の授業には、落伍者(60点以下)がほとんどいない。みんなが作品を「それなりに」仕上げれば、“合格”してしまう。
つまり講評主義には、授業目標が存在しない。いったい、学生(=学生の作品)をどんな水準に仕上げることがその授業が成功したという指標なのか、それが講評主義には存在しない。
学生の作品が講評指導によって相対的に上昇する。講評の前と後とでは、たしかに作品の水準は向上した。その成長(講評の前と後との変化)を通じて学生自身はその授業に充分満足もしている。
しかしだからといって、その授業が成功したとは言えない。その作品の評価の絶対値が存在していないからだ。できる学生はできるなりに、できない学生はできないなりに成長しているだけで、成長の水準はどこにも示されていないからだ。もちろん、個々の学生の作品を一同に見くらべれば、A学生の作品がB学生の作品よりも「優れている」「劣っている」というのは、わかりやすいことだろう。
しかし劣っている学生の水準が、60点以上であるのかどうなのかの水準は、この相対評価の局面では何もわからない。講評に対する学生の満足も、毎日遅刻なし、欠席なしに授業出席して、講評を何度も受けて、かつ60点以上取っている場合だけなのであって、その熱心さの割に50点や40点の不合格を付けられた場合(未履修になった場合)は、文句を言い出すに違いない。大概の場合、こういった不合格部分は、「個性的だね」とか「努力賞」などと言われて、60点台にとどまっている。客観的にはほとんど落第なのである。
なぜ、「個性的」な「努力賞」というように落第学生が救われるのか。それは見方を変えれば、講評が学生の作品への介入であって、作品は教員と学生との共同作品であるからだ。その作品評価を「不合格」として根底的に否定することは、教員の指導成果を自ら否定することと同じことになる。その意味で講評主義の評価には、基本的に59点以下の「落伍者」がいない。ほとんどの場合、学生の自己満足に終わっている(場合によっては教員の自己満足にさえ終わっている)。その意味でも講評主義は、個人主義なのである。まともなな教材一つ配らず、手ぶらで印象批評に終始する。町の書道塾以下の教育である。未だに短大、美大、専門学校のデザイン教育は、この書道塾スタイルを続けている。それは、副業をもった“教授”やアルバイト教員(作品だけで自立できるほどの能力も持てない中途半端な教員)に満ちているからにすぎない。かつてこの分野で教育に関心をもったデザイナーは一人もいないことの証左に他ならない。それでいいわけがない。
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