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 返信: 続・経済産業省の仕事 ― ananさんへの返信 2003年12月25日

ananさんへ

 少し違うな、と思うところだけに触れてみます。

 「数学の方程式なんて私の人生では絶対に使わないから、私だけは免除してほしい、と中学の時先生に直訴した」ようですが、それは、人生で使わないからではなくて、その先生がまともな先生ではなかったから、そうしたのですよ、あなたは。使う・使わないという意味では、学校なんて別に通わなくてもなしで済ますことができます。先生がくだらないから、イヤになるのですよ。数学とあなたは、直に向かい合っているのではなくて、先生を通じてです。だから先生がくだらなければ、数学もくだらない。

 好き嫌いは、あなたが思うほどそう簡単ではありません。もちろん、数学という学問自体が形成する人格というものも一方では存在しますが、高校までは、その教員の専門性(数学に対する)が決定的です。私は数学の先生に恵まれなかったために、未だに×、÷の本来の意味がわかりません。おとなの今から考えれば、数学がわからないなんて、人生がわからないのとほとんど同じような気がしますが、大変後悔しています(東京の私立の名門なら、たぶん半分以上の生徒は×、÷の本来の意味がわかっているはずです)。

 私の息子もまた都立戸山高校に通っていてほとんど不毛な高校生活を送ってしまいましたが(サッカーだけが唯一の楽しみで通っていました)、週に一回の代ゼミで生き返り、あっという間に日本史の偏差値が76点になりました。なんでも土屋文明(http://www.yozemi.ac/sateline/lecturers-2003/social-tsuchiya.html)というふざけた名前の日本史の先生を神様のようにあがめまつっています。この先生は、早口で一気にしゃべり学生に媚びることなど一切しない先生のようですが、だんだんそのスピードになれてきて、最後はその日本史の知見の圧縮力に圧倒されるらしい。そう熱っぽく語る息子の様子を見ていたら、私もその講義を聞きたくなるほど(私だって、予備校でしゃべらせれば、誰であっても哲学を絶対に好きにさせますよ)。

 だから、好き嫌いは、高校までは“出会い”だと言ってもよい。前もって与えられる好き嫌いや個性、あるいは“能力”なんてないと言ってもよい。私も専門学校の校長として、神様のようにあがめまつられる学校を作りたいわけです。学生に好かれる学校ではなくて、学生の人生を一変させる学校を作りたいわけです。先生を変えることが、学生を変えることの前提であって、その逆ではないのです。

 砂場でのあなたの出来事も、おとな対こども、といった(ロマンチックな)対立軸であなたは考えているようですが、そうではなくて、それはあなたがその時に出会った保母さんがダメだっただけのことです。そういったダメな保母さんに対抗するには、お母さんが保母さんよりもはるかに賢くなくてはなりません。おとな一般がダメなのではなくて、ダメなおとながいることが、ダメなのです。だから、あなたが考えるように人生のすべてはそう単純ではないのです。

 私は、あなたほどに、何が自分にとって楽しいことかが未だにわからない。カテキン飲料を見つけて、それを飲むのが楽しみだというところまでは実在感がありますが(http://www.ashida.info/jboard/read.cgi?num=225)、それ以上に自分のやることが楽しいことだと思えることなどない。もちろん辛いことも特にはありませんが、自分に何が向いているのか、何が自分の能力なのか、そんなことに自己確信をもったことなど未だにありません。わかるのは、女性の好みくらいです。

 だから、コミュニケーションというものが、もしあるとすれば、それは人生を一変させるものでなくてはなりません。それは、人生には好き嫌いを超えた何かがある(あるいは、人が生きるということは人生とは何の関係もないhttp://www.ashida.info/jboard/read.cgi?num=162.124.21)、と思わせる瞬間に関わっています。息子が、土屋の日本史を“すごい”と思った。これは、好き嫌いではなく、一つの興奮なのです。興奮のないコミュニケーションは、伝達の一様式、表現の一様式に堕してしまいます。くだらないことなのです。

投稿者 : ashida1670  /  この記事の訪問者数 :
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