症状報告(31) ― 日赤は救急病院だった。 2003年11月25日
今日11月25日は家内の49歳の誕生日だったが(吉本隆明http://shomon.net/ryumei/の誕生日と同じ。家内は吉本隆明と、私の用事の途中出会って話したことがある)、その今日、主治医の武田先生から呼び出しを受けた。
「リハビリ転院をすすめる」と言う。しかしよくよく聞いたら、この病院(日本赤十字医療センター http://www.med.jrc.or.jp/arrive/traffic.html)は、救急病院のため、基本的な入院期間は16,7日間と厚労省からも指導を受けており、「私も患者と厚労省との板挟みでつらいのですが」(武田)と言う。私は、そういった“指導”があるというのを始めて知ったが、たぶん治療費の収入よりは、助成金の収入の方が上回るのだろう。厚労省行政の凸凹なのだ。
「あと2週間ほどすれば、転院できるほどには体力は回復するだろうし、(私のお薦めする)行き先の病院も申し込んでも2週間くらいはかかるから、丁度今の時期の判断となった」(武田)らしい。その行き先の病院は、墨田区にある病院らしいが「副院長をよく知っているので心配はない」とのこと。「別の病院であってもかまいませんが、私が知っているところの方がいいと思うし」とも武田医師は続けた。
私は主治医の判断がもう一つ飲み込めなかったので、こう聞いた。「要するに、治療の段階は済んで、あとは時間の問題(リハビリの問題)になったか、あるいは後遺症の判断としてもうこれ以上は治療可能ではないという判断が先行してのお話かどうか」。「それは何とも言えないが」と言って、続いた話が、先の厚労省の指導の話だった。要するに長期入院ができないため、リハビリ入院しながら、治療の指示は日赤が行う、というものだ。こうなるともはや家内の治療計画全体や現在の症状についての診断の話は、この場の話ではない、と私は判断した。家内はノートを開きながら、現在の身体の“張り(突っ張り)”の状況などを話し続けようとしたが、私が「そんなことはここで話しても意味がないよ」とその話を遮った。
「要するに、今日のお話は転院の申請をするかどうかの判断を聞きたいということですか」。「そうですね。今から申し込んでも2週間くらいはかかりますから」「それは困りましたね。治療とリハビリが分離できるほど、今の家内の状況が安定しているとは思えない。そういった仕方の転院の前例がありますか」「多発性硬化症の患者さんではあまり例がありません」。「とするとすぐには判断できませんよね」「こちらで病院を選択して、協力して頂く、ということはできますか」「それはできます」なんて話をし続けている内に、傍にいる家内が泣き始めた。9月初旬から3ヶ月近くの闘病、3月の発病からほぼ半年の入院の中で、武田先生に対する信頼だけが支えてきた闘病という意味では、その彼からの転院のすすめは、家内にとってショックだったに違いない(家内からすれば見捨てられたようなものだ)。
しかし私は、この主治医は結構正直な人だと思った。たぶん3ヶ月という家内の入院期間が自分が部長である神経内科の「入院平均日数」をどんどん上げてしまい成績を悪くしつつあったのだろう。むしろ三ヶ月よく我慢してくださった、と考えた方がいい。もちろん、こちらで“ごねる”ことをすれば、期間を延ばすことは充分にできるだろうが(その程度には理解のある先生であるとの判断も、私の判断の一つだった)、そんなことをしてまでここにお世話になることもない。たとえば、今日の話の切り出しのところで、今回の入院では、前回の治療の「反省をして」と思わず口にされたのを言い直されるのもこの先生の特長。正直な武田先生を、なれない病院経営上の「板挟み」に追いやるわけにも行かない。
10ヶ月で3回もの入退院。そろそろ、この病院との相性もつきたのかもしれない。転院はどんなときでも難しいものだが、むしろ今回の転院の契機は病院からのもの。チャンスと考えるしかない。誕生日のプレゼントが転院だった、と考えるしかない。もちろん治療とリハビリとの分離転院なんて、とても選択できない。一から病院を探すしかない(誰か多発性硬化症の、救急医でない専門医を教えてください)。それよりも、この転院ショック(=交感神経の緊張)が家内の病気を再発させることの不安の方がよほど深刻だ。
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