「勤労感謝の日」を祝して 2003年11月23日
今日23日は「勤労感謝の日」。勤労感謝の日には、いつもあの散髪屋さん(http://www.ashida.info/trees/trees.cgi?log=&search=%8eU%94%af%89%ae&mode=and&v=456&e=msg&lp=456&st=0)のことを思い出す。「芦田の毎日」の中でも一番好きな記事の一つだ。この祝日を祝して、再録します。
●散髪屋にて (http://www.ashida.info/trees/trees.cgi?log=&search=%8eU%94%af%89%ae&mode=and&v=456&e=msg&lp=456&st=0)
2001/11/24(土)00:59 - 芦田宏直 - 470 hit(s)
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今日の祝日(勤労感謝の日)は、快晴だった。こんな日は、きっと散髪屋は空いているだろうと思って電話をかけたら、やっぱり空いていた。「5分後に行きますから」と“予約”して、いつもの散髪屋さんに行った。私は東京に出てきて、約30年、6回引っ越しているが、散髪屋は2回しか変えていない。学生時代を含めた前半の10年くらいは、実家の京都に帰ったときにだけなじみの散髪屋に行き(というより、散髪するためにのみ京都に帰っていた)、中盤の10年は家内によるカット、残りの10年が東陽町の散髪屋と今の世田谷・粕谷の散髪屋さんだ。
散髪というのは、今時珍しく身体を介在させる作業であって、私はまず女性にカットしてもらうのが耐えられない。指先の感触が“愛撫”の連続のように感じるからだ。どんな“おばさん”にカットしてもらってもそうだ。今日(こんにち)の仕事や生活において、代理の効かない行動は、たぶん散髪という行為であって、第二に通勤という行為だ。満員電車の中では、いやおうなく人間である自分が身体を有しているという“自覚”をせざるを得ないし、散髪は合法的に自らの身体に他人を介在させざるを得ない。第三には“病気”(診療と治療)があるが、これは健康である限りは日常的ではない。
仕事なんてものは、自分がいなくてもいつでも代わりがきくと思っておいた方がよい。これは自分と同等かそれ以上に能力のある人間が職場にいるという意味ではなく、経営の本質は、自分が退いたときでも組織が同じように(あるいはそれ以上に)回転する状態を作り出すことにあるからである。「こんな会社なんて俺がいなくなったら、直ちにつぶれるんだから」なんてほえている限りは、その管理職は無能な社員である。むしろ経営(=管理職)の本質は代理にある。だけども、散髪だけは管理職であろうがなかろうが自分で行くしかない。“秘書”に任せるわけには行かない。会社を休むことはあっても散髪に行くことは休めない。
私は、この代理の効かない“散髪”という行為がいやでいやでしようがなかった。こんなに近くに人が寄ってきて好きなだけ髪の毛をさわり、切るなんて、恋人であっても、家内であってもここまでは近づいたり、さわったりはしないだろう。なんと“エッチ”な行為なのだろう。
だから、散髪屋を何度も変えるなんて、それは女房を取り替えるのと同じくらいスリルがありすぎて、とんでもないことなのだ。散髪屋を平気で変える人間は、自らの身体を上手に受け入れることができていないのである。
私の行く世田谷粕谷の散髪屋は、60代のご夫婦が営んでおられる。どこから見ても普通のご夫婦だが、お子さんがおられない。普通どころか、最初の頃は、奥さんは無粋だし、ご主人のぎょろっとした目が怖くて、「この夫婦、何が楽しみで生きているのだろう」と思っていた。たしか、7,8年前、ご主人が胆石か何かで入院されて、1,2ヶ月お店を不在にされたとき、「主人を看病に行っても、店を閉めるな、帰れ、と言うんですよ」と話しかけられ、なんで? と聞いたら、「だって、お客さんが他の店に行っちゃうと困るじゃないですか」とさりげなく答えられたのが印象に残っている。なるほど、なじみの散髪屋が店を休んでも、髪の毛は伸びるのだから、いくらなじみであっても“我慢”できることではない。他の店に行かざるを得ない。散髪屋というのはうまい下手というよりは、“なじみ”かどうかが決め手なのだから、店を不在にするというのは致命的なことなのだ。
「店を閉めるな、帰れ」と言われたご主人のコトバとそれを守って店の開店を死守しようとしたご夫人の緊張感がひしひしと伝わってきた。ご主人不在の入院中ちょうど店を通りかかったときに店じまいのカーテンをとしようとしていたご夫人を見て、“頑張っているな”と思わず応援したくなったものだ(そう思っても毎日髪を切りに行くわけにはいかない。毛が細い私にはとんでもないことだ)。こんな超平凡な(少なくとも私にはそう見えていた)日常の中にも重い日常があるのだと思ったら、急にこのご夫婦がほほえましく思えてきた。
今日の勤労感謝の日、このご主人からいい話を聞いた。
ここのご主人は青森県出身で、東京に出てきて修行され、粕谷に店を構えたのが昭和30年代。ところが最初は、東京は修行の場にすぎず、一人前になったときには、青森に帰り、そこで店を構えることになっていた。青森で農業をされていたご主人のお父さんは、それを楽しみに、土地や店の資金を用意して待っていたらしい。たぶんそれがご自身の老後の最大の楽しみだったのだろう(地方出身の私にもよくわかる話だ)。
ご主人もそのつもりで何度か青森に戻り、店の計画を具体化しようとされたが、こんな人もいない田舎で何ができるのだろう(商売は成り立たない)、と思われ、帰るのを急遽断念。東京に残って、東京で店を出すことを決意された。もちろんお父様は失望され、激怒。それ以来勘当の日々が続いた。ご夫人との結婚式もされないままの(ご夫人はお父様にあったことがないままの結婚生活だった)、家族から孤立した日々の中で、粕谷に貸店舗ではあるけれど独力で最初に店を構えられ、8年後にはご自身の土地と店(=今の店)をお持ちになるようになった。
お店はふたりが努力をして軌道にのり、その4年目の(お父様は66才になられていた)夕方のことだった。「どこかでみたことのある人が店の前でタクシーから降りてきたんですよ」。よく見たら「親父だったんです。びっくりしました」。「心配で見に来られたんでしょう。ドラマみたいな一瞬ですね」と私。
そのままお父様は一週間滞在されたらしいが、一日目は三人で同じ部屋に布団を並べて寝たらしいが、いびきがやかましくて、遠慮して次の日からは別の部屋に寝ることになったらしい。朝起きたときには、箒で部屋を掃除したりして、「そんなことは青森の家ではやったこともない親父だったのに」そうだったらしい。
緊張したのか二日目に歯が痛くなって、ご夫婦は歯医者に行かせることにした。これには作戦があった。なじみの歯医者と手を組んで、「一ヶ月くらい治療させることにしたんですよ。そしたら親父もゆっくりしてくれるじゃないですか」。なるほど、せっかくの父上の来京とはいえ、店を閉めるわけには行かない。「月曜日」しかゆっくりできないのだから、歯痛は、この心優しいご夫婦にとってチャンスだったのだ。
ところが、この歯医者に朝一番に行った「親父」がお昼になっても戻ってこない。「おかしいな、おまえ見てこい」といってご夫人を見に行かせたら、お父様が待合室に座ったまままだ順番を待っている。訊ねてみると、「わたしなんか急いでいないのだから」と言いながら、後からきた人を、どんどん先に送っていたらしい。確かに「戻ってこない」はずだ。
忙しいふたりに相手にされないまま、付近を散歩に行ったお父様。青森弁が通じない。まだ田んぼののこる粕谷の農夫に話しかけても青森弁が通じない。最後には「耳が聞こえない」そぶりをされたらしい。「東京の人は耳が遠い人が多いなあ」なんてうそぶいていたお父様。
お店ではたらくふたりを見ながら、「わざわざお店にきてくれるお客様からお金なんか取るんじゃないよ。ただにしてあげなさい」となんども「親父に言われた」らしい。ご主人は、「東京は、お金をもらわないと生活できないところなんだよ」とそのつど“教えた”らしいが、最後まで納得されなかったそうだ。
そんなお父様も、例の一ヶ月作戦は実らず、1週間で青森に戻られた。戻ってからは、「東京はいいぞ。もう農業なんかやっている場合じゃない。もうそんな時代じゃない」と盛んに周囲の人たちに言われていたらしい。お父様はその後ほどなく病に倒れられ、和解の来京後2年で(70を前にして)お亡くなりになった。「たぶん、ご夫婦の元気で働く姿を見られて安心されたんですよ」と私。
私がそのとき思ったのは、66才にして「東京はいいぞ。もう農業なんかやっている場合じゃない。もうそんな時代じゃない」と思えるこのお父様があってこそ、ご主人の「帰らない」と言える若き決断があったのではではないか、ということだった。若いご主人の、またご夫婦の孤立は、決して孤立ではなかったのだ。お父様とふるさとを拒絶した若い決断と長い勘当が、むしろお父様自身の夢を実現する道程だったのである。そう思うと、私の髪を切りながら淡々とお話になるご主人を鏡に映して、流れる涙を隠すのが大変だった。いい勤労感謝の日だった。
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