返信: もっと他者に関わりたい 2003年11月23日
そんなアグネスチャンや、土井たか子のようなバカなことを言ってはいけません。
あなたは、なぜ、そんなにも自分に自信があるのですか? 私があなたたちの頃は、自己嫌悪の連続でした(今でもそんなには変わりません)。たとえば、私の大学時代の自己嫌悪の一つ。キャンパスをぶらぶらしていて、サルトル研究会、というサークルにふと顔を出したら、なんとそこはサルトルの著作を読まず、竹内芳郎の『サルトル哲学序説』(http://www.sangensha.co.jp/Author/authTA.htm#Anchor318598)を読んでいたというバカなことやっていました。早稲田の若い学生たちは、口の達者な奴がたくさんいて、サルトル(http://www.ne.jp/asahi/village/good/sartre.html)を読まずにサルトルを論じ、マルクス(http://www.cpm.ehime-u.ac.jp/AkamacHomePage/Akamac_E-text_Links/M.EJ.html)を読まずにマルクスを論じ(日本共産党でさえ、もう何十年も前にマルクスの諸著作を党の指定文献から外してしまいました)、ハイデガー(http://www.logico-philosophicus.net/profile/HeideggerMartin.htm)を読まずにハイデガーを論じ、デリダ(http://watanokuni.at.infoseek.co.jp/pensee/derrida.html)を読まずにデリダを論じ … 、といった感じがキャンパス全体に蔓延していました。『現代思想』(http://www.book-inn.net/siso.htm)という雑誌(“先端”思想の紹介誌)が一世を風靡していた時代で、そればかりを読んでいた学生が多かったのです。
だから、ハイデガーのことを何時間でも話せる奴は捨てるほどいましたが(私の同僚の鹿島徹なんて、そのまま早稲田の“教授”になってしまいました)、その話を聞き終えて、「どこで(どの著作のどこで)、そんなことをハイデガーは言っているの?(そんなことハイデガーは言っていないよ)」と聞いたら、誰も答えられない。誰もハイデガーの著作をまともに読んではいなかったのです。私も高校までは(あるいは大学1年生の夏休み頃までは)、そんな学生でした(毎月刊行される『現代思想』をむさぼるようにも読み続けていました)。そういう知ったかぶりをする私がだんだんいやになっていました。大嫌いな自分。結局、自分が何を考えているのか、何をしゃべっているのか、何もわかっていなかったのです。人(“他人”)に伝えることなど何もなかった。単なる思想的恐喝と自己顕示。空虚そのものです。
「自分以外を信じる事の出来ない冷酷な人間」と、あなたは私の「他者への誠実とは、他者に関わること(他者への親切、思いやり、愛情などなど)ではなくて、自分が今何を考えているのかを出来うる限り具体的に明瞭にしておくことです。 そうであることが、他者への誠実であって、それ以外に、自分が他者への関係を持ちうることはあり得ません」というフレーズをまとめていますが、これが大きな間違いの元です。
私は、信じる、信じないということを言いたいのではありません。「自分が今何を考えているのかを出来うる限り具体的に明瞭にしておくこと」が大切だと言いたいのです。これは簡単で、当たり前のことのように見えますが、結構、むずかしい。会議で議論していても、ほとんどの場合、すれ違うのは「意見が違う」からではなくて、自分が話していることがどういうことなのか、わかっていないことがほとんど。要するに「意見」にはまだなっていない場合がほとんどなのです。一つの意見を形成する、というのは、その意見の特徴がどこにあり(特徴がない意見は意味がありません)、その特徴のどこに弱点があるのか(弱点のない特徴は存在しません)をよく見極めることです。それが「意見を言う」ということの意味です。
たとえば、「明るい学校を作ろう」という意見は意見ではありません。「暗い学校を作ろう」という意見は存在しないからです。その意見の反対命題が成立しない意見は意見ではありません。その意味で「明るい学校を作ろう」という意見は弱点のない意見(誰も反対しようのない意見)なのです。ここからは、何も生まれません。何か事をし損じて、反省した結果、「前向きに努力します」なんて“反省”を披露する人もいますが、これも反省ではありません。「後ろ向きに努力します」と言う人などいないのですから、「前向きに努力します」という言葉は本人さえ何を言っているのかわからない言葉なのです。人が、本当に何かをやるときには、必ず、悪(=弱点)を引きずっています。わが学園の教育改革にも未だに学内外に反対者がいます。それは、何かをやろうとしているからなのであって、誰もが賛成する改革なんて改革ではありません。
逆に、本来の意見の多い会議は、よい結論が出ます。それぞれが弱点と特徴をよく知っているからです。“会話”というものが成立するわけです。だから、あなたのイメージする「思いやり」と「愛情」のある世界というのは、自分の特徴と弱点を出来うる限り明確にすることの中ではじめて成立するものなのです。
私が言いたいことは、特徴や個性(自分がそれでしかないもの)には、いつも弱点(欠点)がつきまとっているということです。そしてそれ(弱点=欠点)こそが、一人の人間が世界に向かって開かれていることの根拠だということです。つまり、自分のことはよくわかっているけれども、他人のことはわからないというのはほとんどウソで、実は、自分自身も他人を理解すること以上に難しいことだということです。むしろ自分のことの方があまりにも自分に“近い”ため“理解”するのは難しいかもしれない。眼鏡をかけている人にとって、いちばん見えづらいものは何だと思いますか。その眼鏡それ自身です。だから、人は自分を思いやるよりは、他人を思いやるほうがはるかに簡単な場合もあるのです。ほとんどの場合、人間は他人を過剰に意識しすぎて、むしろ自分を大切にすることに失敗しています。自他の遠近はいつも逆転し続けているのです。
あなたは、「顔を見るだけでむかつく人もいるだろうし、声を聞いただけで嫌悪感を感じる人もいる」という私の文章を引用して、次のように続けています。「俺はそこまで嫌いな人間はいません。他者を嫌う事もまずありません。そういう考えを持った事もありません」。こういう脳天気なことが言えるのは、あなたが“自分は自分である”(=「俺は自分のことが好きです」)ということを脳天気に思いこんでいるからです。そんなことありえない。なぜ、あなたは若いくせに自己嫌悪の一つもないのか。なぜ、あなたは若いくせにそんなに自分自身に自信があるのか。なぜ、あなたは若いくせに人のことが気になるのか、なぜ、あなたはもっと内向(内省)しないのか。なぜ、自己の内部の分裂に思いを致さないのか。それが不思議でならない。そういった内部の分裂に思考がとどかない者が、他人を思いやることなどできるはずがない。
もっと別の場面から言い換えましょう。
あなたは、人を愛することと憎悪することとを単純に対立させていますが、これは、実は同じものです。人間の愛情や憎悪の根底には、根源的な〈自由〉が存在しています。人が人を愛することができるのは、その愛する人間からいつでも離れ去ることができることが前提されているからこそです。どんな束縛や条件もないのに、その人の傍にいること、いたいと思うこと、あるいは尽くすこと、尽くしたいと思うこと、それが愛するということでしょうが、それは逆にいつでも自由にその人を嫌いになることができる、憎悪することができるということと同じです。要するに“対等”ということなしに、愛情は成立しない。フェミニズム以前に男女は“平等”なのです。
人間だけが、年齢、性差、力や富の権力と関係なく、相手を殺すことができます。動物では弱い者は、強い者を殺すことができませんが、人間にはこの制約がほとんどありません。そんな動物は人間だけです。これが人間が平等であることの根源です。民主主義以前の平等です。この平等に基づいてこそ、人が愛し合うこと、人が無条件に愛することが可能になっている。政治や国家や民族や歴史以前に、愛情(あるいは憎悪)は可能であったということです。たとえば、アメリカのブッシュは絶対に負けない戦争をやってしまった(愛のない戦争をやってしまった)。だから、負け続けているということ。これは、人間が根源的に自由だからです(これについては、旧「芦田の毎日」6番:「なぜ人を殺してはいけないのか」参照のこと(http://www.ashida.info/trees/trees.cgi?tw=&log=&search=&mode=&v=6&e=msg&lp=68&st=0)。
あなたは、こうも言っています。「俺は人に愛される人間の最高峰になりたい。そして今まで関わった全ての人間が幸せである事を願い、自分に出来る事は何でもしてやりたいと思います。そうする事が人間として当然とすら思います」。こんなことをインターネットで堂々と(恥ずかしくもなく)公開できる人は、“北朝鮮”の金正日くらいでしょう。金正日は、アグネスチャンと同じくらいの博愛主義者なのです。だからこそファシストであるわけです。
あなたは、恋愛関係と夫婦関係との違い(あるいは同一性)がわかりますか。どちらもいつかは別れるということです。恋愛は嫌いになって別れる、夫婦は好きなまま別れる(死別する)。だからもっとも平和的に見える夫婦関係こそが残酷な別離を含んでいるわけです。恋愛には残酷な結末(三角関係)が目立つため、そちらの方が、別れの残酷さが目立つようにみえますが、実はそうではない。結婚式とは、死刑よりも残酷な儀式です。だから、その残酷さを忘れたいがために酒を飲み、みんなで祝うのです。“嫌い”でもないのに別れざるをえない、という根源的な自由(根源的な暴力・根源的な殺人)が夫婦の“純愛”を形成しています。“北朝鮮”の金正日やアグネスチャンやあなたには、この愛することが含んでいる“別離”や“死”への洞察が欠けているのです。
「もっと他者に関わりたい」なんてホストクラブのできそこないホストのようなことを言っている場合ではないのです。「とりあえず周りの人間をもっともっと愛しましょうよ」。こんなはずかしいことを匿名であってもこともなげに言える男に愛される“人類”も“女”も、みんな“北朝鮮”に行くしかありません。すべての社会主義国は、“思いやり”と“善意”の国を目指したからです。絶対に負けない戦争をやったブッシュ(=ネオコン)も、その瞬間ファシストであるフセインや金正日と同じ思想に染まった。だから、彼は永遠に勝てない。勃発するテロリズムは、“平和”の本質を露呈させているのです。このことの意味をわが金正日であるあなたは、よくよく考えるべきです。
この記事へのトラックバックURL:
http://www.ashida.info/blog/mt-tb.cgi/529