返信: 十人十色 2003年11月21日
やっと、今、自宅に帰ってきました。毎日、感想をありがとう。以下が、今日のコメントです。
「さて、あのコラムの中ですごく共感できた部分がありました。
>たったひとりの自分だけが自分の支持者にすぎないことが、
>世界を魅了する天文学的な支持量となって現れることの始まりであるのかもしれない
これは俺もたまに思いますよ。
だからこそ人はもっと自分に自信を持たなければいけないと思います。
学生の中でも自分に信念を持っている人間がどれだけいるか。
自分の事が嫌いだと言う人もいるし、自信が無いと言う人も多いです。
自分で自分を認めてやる事も出来ないとは悲しい話ですね」
●感想を書いてくれるのはいいけれど、まだ全然私のレポートを読めていない。このあなたのまとめ方について、同じレポートで私はこうも言っています。「他人にほめられると自分を過度に甘やかし、他人が非難すると極端に自信喪失する。自分で自分のしていることを評価できない。ほめられても簡単には納得しない。けなされても落ち込んだりはしない。そういった自己評価ができない」。こう書くことによって、だから、私は「青年よ、自信を持て」なんて言う森田健作的(=青春校長先生的)応援ソングを唱っているつもりはないわけです。褒められても、けなされても他者に過剰に反応するな、と言っているのです。
あなたは、続けて言います。「俺は心の中にサポーターが2万人ぐらいいるほど自分が大好きなのでそういう人の気持ちが100%理解できずにいるのかもしれないと常日頃から感じています。だからこそ理解してあげたいと思いますね。彼らを良い方向に軌道修正する方法は無いものか、と」。
●なぜ、あなたはこんなにも他者にお節介であるのか。あるいは、なぜあなたは、こんなにも自分が好きなのか。私は、「芦田の毎日」を書き続けていますが、私の文体が、啓蒙的であったことはかつて一度もありません(そのように私はあなたのような自信をもったことはかつて一度もありません)。ひたすら、私はこう考える(あなたはどう考えるのか)、と言い続けている(問い続けている)だけです。それが、私の文体です。それは一切、他者への関わりを拒絶しているわけです。関われないものを〈他者〉というのですから。
●あなたは、また続けています。「知らず知らずのうちに他人を傷つけている事があるのかもしれないと思った事はありませんか。俺も校長と同じで(笑)うっかり行き過ぎた発言をしてしまう事があります。その時に自分に自信を持たない者はこちらのブラックユーモアを笑って流す事も出来ずにいる場合があります。そこら辺をこちらの基準で「このぐらいは平気だろう。」などと考えるのは無神経であるような気もします。この学校に入って他人の立場に立って話すことがどれだけ重要なのかが改めてわかった気がします」。
●そんなこと(「他人の立場」)を考えるのは、接客業の職業グセくらいのことに留めておいた方がいい。他者への誠実とは、他者に関わること(他者への親切、思いやり、愛情などなど)ではなくて、自分が今何を考えているのかを出来うる限り具体的に明瞭にしておくことです。 そうであることが、他者への誠実であって、それ以外に、自分が他者への関係を持ちうることはあり得ません。
●「知らず知らずのうちに他人を傷つけている事」とあなたは言いますが、そんなこといつでもあるでしょう。「知らず知らずに」傷つけているのですから。顔を見るだけでむかつく人もいるだろうし、声を聞いただけで嫌悪感を感じる人もいる。要するに「知らず知らず」とは、人間の存在そのものに対する嫌悪感にすぎません。そんなものを気にする人は、ただレトリックで親切ぶっているだけです(存在するだけでイヤな人は世の中にいくらでもいるのですから)。どこまで配慮しても、その配慮が次の嫌悪感を呼ぶ、相対的な配慮にすぎません。むしろ他人の立場に立つというのは、裏返しの(相対的な)優越感なのです。それこそを、言葉の厳密な意味で〈失礼〉というのです。だから、若い、前途有望なあなたは、中途半端に「他人の立場」などに立つことを考えないで、他人から褒められる前に自分を褒め、他人から批判される前に自分を批判できる力を蓄えるべきです。その時にこそ、やっと「他人の立場」を考えることが出来る人間になるのだと思います。私が「一流とは何か」で言いたかったのはそういうことです。
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