武蔵丸の衰退 ― 休場と再生 2003年11月13日
武蔵丸の今日の取り組みを見ていると(http://sports.yahoo.co.jp/headlines/20031113/20031113-00020562-jij-spo.html)、休場しないということが、一番の練習(一番の精進)「である」ことがよくわかる。滅多に相撲など見ないが、ニュースを見ていてそう思った。素質や栄光だけでは、〈現役〉には勝てない。身体(からだ)がまったく動いていないからだ。同じように、休場を重ねていた貴乃花が、武蔵丸のように無様でなかったのは、なぜか?
たぶん彼は嫌われ者だった分、内向し、イメージトレーニングが秀逸だったのだ。孤立が彼を内観的に観念的にした分、現役の動きのイメージを頭の中で再現することができたのだ。筋力を再生させるほどの内向。それはそれで大したものだ(まるで、ナザレのイエスのような貴乃花)。武蔵丸は、人がいいぶん、物理的でしかなかった。だから彼は、実際に現役の負けを重ねて強くなるしかない(世間がその“時間”を許す限り)。物理的に再生するしかない。いずれにしても、「現役である(現在である)」ことは、才能や能力とは別の力がいつでも必要なような気がする。極限の内向か、社会的な猶予(人間的な幸運)か、人が“成功する”というのは、どこまでいっても難しいことだ。嗚呼、武蔵丸。
そんなことより、2匹飼っていた金魚の一匹が、最近姿勢が傾くようになり、表面に白いカビのようなものが少し付いていた。塩を毎日ほんの少しずつ水槽に入れ、一月(ひとつき)くらいはなんとか持たせてきたが、この武蔵丸記事を書いている途中、ふと水槽を見ると、傾きが大きくなっている。これはもう駄目かな、と思って、起死回生策を思いついた。イソジンを“皮膚”の周りに付けてやれば、カビは消えるのではないか、ということだ。少なくとも塩よりは効き目があるはず。
早速、「太郎、太郎」と受験勉強中、自室に閉じこもりがちな息子を呼んで、「傾いている金魚を取ってくれ」と頼んだ。私は、死にかけの金魚は、怖くて、取れない。そこで息子がつかんだ金魚を洗面所に持って行って、イソジンを薄めて、“皮膚”にかけてみた。一瞬、はねて、イソジンが飛び散り、洗面ボウルが血だらけのようになったが(何をするのやら、このオヤジという顔で息子はあきれ顔だったし、金魚をつかめない割に大胆なことをして、と始末に負えない模様)、取りあえず、処置は施し、別の入れ物(バケツ)に、新しい水と、すこしばかりの塩を入れて、よみがえれ、と祈った。(「嗚呼(ああ)、武蔵丸」と先の記事を書き終え、「そんなことより、 … 」と金魚の記事を書き始める約20分の間、その処置をしていたが、さて、ちょっと金魚のその後を今、見てきます。( … )。ダメだ。今度は、お腹を上にしてほとんど動かない。イソジンは失敗だったか。明日の朝、いやーな予感がする。出勤する朝から、惨めな金魚の死体を見るのもイヤだし、どうしよう。そもそも、夜中にトイレに行ったついでにバケツを覗くのも気が引ける。死んでいると、眠れなくなるかもしれないし、見ないと気になるし、どうしよう。
そもそも、家内が入院中の(http://www.ashida.info/jboard/read.cgi?num=124)、この事態だから、縁起もよくない。金魚の、この困窮は、家内の困窮に重なってくる。イソジンはステロイド剤を「意味している」のか、と思わぬことまで考えてしまう。だから、ぜひとも生き返って欲しい(何だか喜劇か悲劇か、書いている本人もわからなくなってきた)。今夜がヤマだ。飼い始めて、もう2年近く経つ。せめて、家内が戻るまで生きていて欲しいが、今夜がヤマだ。朝まで見ないことにしよう。さて、みなさん、この金魚、どうなると思いますか。乞うご期待。
一匹水槽に残った、金魚がさびしそうに、今私の方を見ています。私のまなざしと金魚のまなざし、どっちが水槽の中なのか、わからない。とはいえ、ただいま、私と太郎は、家内(母)のことよりもこの金魚の再生にかけています。
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