コミュニケーション教育は、短大のマナー教育のようなもの。 2003年10月28日
昨日の(月曜日)は、経産省(旧通産省)の委員会の第一回目だった(http://www.ashida.info/jboard/read.cgi?num=212)。何が(養成すべき)人材か、という問題に答えを出す委員会なのだが、そんなものに答えはないに決まっている。
しかしあえてそれを考えるとすれば、ということで言えば、大概のこの種の「委員会」は、「コミュニケーション能力」「自己表現力」「理解力」「企画力」などといった言葉が並び始める。総理府(今は内閣府)なんかは、「人間力」とまで言っている。こうなると、問題は解決しない。
こういった指標は、なぜ浮上しやすいのか。これらは、大学を出て、会社に入って仕事をし始めると必ずといっていいほど必要な能力だと言える。逆に言えば、30歳、40歳にもなると、これらの能力があることと、その年齢であることとはほとんど同じことを意味する。もちろんその年齢になってもそういった能力のない人間はいくらでもいるが、そういった人間は「コミュニケーション能力」の勉強をしてもその成果が期待できない人間にすぎない。何をしてもダメな人間はいる、ということにすぎない。要するに、そういった能力は、人間、ある場所に置かれれば、そうならざるをえない自然な能力にすぎない。
それは「マナー教育」のようなものだ。女子短大などでそういった「科目」があったりするが、そんな科目のある大学の女子学生など、ほとんどそういった高級なマナーが必要な場面に実際には出会うことがない。“マナー”というのは、そこそこの仕事をそこそこの人とするようになって、知っていないと恥をかく、というときにこそ身に付くものにすぎない。ヨーロッパのような階級社会ではない日本では特にそうだ。それは、ある種の自然性なのである。
だから、若いうちからマナーを知っている学生に出会うと、もっとやることがあるだろう、と思うか、よほど“家の出”がいいと思うかのどちらかなのである。それはしゃべりのうまい学生(“コミュニケーション能力”にたけた学生)に出会うと、こいつはあやしい、と思うのに似ている。若い内は、どんな場合でも不器用であっていいのである。偏っていてもいいのである。それが学生というものだ。要するに「コミュニケーション能力」必要論というのは、形を変えた世代論にすぎない。
そういったことを無視して、「コミュニケーション能力」が必要だといっても何も始まらない。それは、有為な社会人が自分もはじめは実際は不器用だったくせに、自分の今の到達点を逆さまに投影して、最初から「自己表現力」が必要だといっているに過ぎない。それは無いものねだりというものだ。
私は、大学生は、極端に言えば、ラテン語かギリシャ語を4年間徹底して極めるくらいのことをやってもいいと思っている。まったく役に立たないことを徹底して極めるということ。意識しないでは学べないようなことを学ぶ(つまり自然的には学べないような学びの)訓練をする必要がある。それができる人は、一生(どんな仕事をしようが)勉強し続ける精神を持ちうる。
たとえば、通常の社会人は仕事をすることが毎日の勉強になっている。つまり彼らは、自然的に(=必要に迫られて)学んでいるわけだ。こういった種類の勉強しか知らない社会人は、その場を離れると途端に勉強しなくなる。それは怠け者になるのではなくて、勉強の質が経験的であるからだ。だからこの人たちの「教養」もまた司馬遼太郎を読む程度にとどまる。マーケティングの専門家、広報の専門家、経理の専門家、財務の専門家などといっても、大学時代は社会学部や法学部だった、という人はいくらでもる。これは厳密には専門家ではない。若い頃からそういった職種や部門に置かれて、時間が経てば、それらのことに他の人より詳しくなっていた、ということに過ぎない。たかだか相対的に過ぎない差異を「専門」と称しているに過ぎない。
たとえば専門学校の教員には、実務経験者が多いが実務の経験が新鮮な内は学生に支持されるが、数年も経たない内にその“知識”は陳腐化してすぐに学生に飽きられる。いちど学校の中に入ってしまうと、もはや勉強の契機がなくなり、知的な消耗を待つばかりになってしまう。勉強の仕方が意識的でなかった分、実経験がないところでの勉強の仕方がわからないのだ。
私は、その意味では、高等教育(大学や専門学校)というものは、意識しないと学べないものを学ぶ場所だと思う。反自然的、反実用的なものを学ぶ場所だと思う。決して〈社会〉と〈学校〉とは、直接的、連続的に結びついてはいけないのだ。本来の専門性の習得には、自然的な内容は皆無なのである。バカなこと(どうでもいいこと)に一生費やしている奴がいる、ということがわかるだけでも、高等教育は成功しているのである。そんなところに「コミュニケーション能力」なんて、世俗の目標をあたえて、何が〈人材〉なのだろう。それは女子短大の「マナー教育」以上にくだらない「科目」だと思う。
月曜日の会議は、そう私一人が発言し続けたため、話がまとまらなくなった。他のメンバーはみんな「コミュニケーション」派なのだ。困った、困った。野田一夫氏(http://www.nodakazuo.com/profile.html)が議長だったが、「芦田さんのおかげで、まとまるものもまとまらない」と嘆いていた。私からすると、そう簡単にまとまって欲しくないのだが、今後どうなることやら。
とにもかくにも経産省(旧通産省)参事官+若い官僚5名以上(+日本総研のメンバー)が会議を取り巻いているのが印象的だった。みんな30歳前後だろうか。みんな学生のような顔をして議論を聞いている(これは前の労働省の委員会http://www.ashida.info/trees/trees.cgi?tw=&log=&search=&mode=&v=108&e=msg&lp=110&st=0 の時もそうだった)。会議は19:30に始まり(赤坂にある野田一夫氏のOFFICEで行われた)、11:00近くまで続いたが、最後まで(表向きは)いやがらずに聞いている(2、3発言したひとはいたが)。私の学校の会議だとこうはいかないが、この人たちの、仕事の“ネタ”に対する関心の持ち方は少し異常なくらいだ。私自身は、朝8時からこの23時までもはや限界そのものの時間だったが、この人たちは、この時間をものともせず、またいつものように何もなかったかのように明日の朝出勤するのだろうか。私は官僚が天下りする気持ちが充分にわかるような気がした。
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