校長の仕事 ― なぜ、出典を明記しない? 2003年07月11日
毎朝、一時限目の授業を見て回る私の仕事は、まだ今日も続いていますがhttp://www.ashida.info/jboard/read.cgi?num=71、http://www.ashida.info/jboard/read.cgi?num=72、http://www.ashida.info/jboard/read.cgi?num=75、http://www.ashida.info/jboard/read.cgi?num=151)、その今日も許せない授業に出会った。何度も教員に言っていることだが、まだ徹底していない。授業での資料の使い方がおかしい。
何度も言いますが、雑誌や書物の一部をコピーして授業で資料として使う場合には、必ず出典(タイトル、著者名、ページ数、発行日時など)を明記して使うべきだ。
これは著作権問題とは何の関係もない。ましてや資料の使い方の“マナー”に属することでもない。
高校を卒業したくらいの学生には、本に書いてあること(活字になっていること)は、みんな正しいと思う傾向がある(大人になると最後の頁の「著者略歴」しか見ないという行儀の悪い読者もいるが)。大手の出版社なんかから出ている本や雑誌の場合は特にそうだし、「教科書」や授業で使う「資料」の場合も例外ではない。ところが、人が簡単に手にすることのできる“資料”にはほとんどまともなことが書かれていない。
だから、資料には、肉体をもった著者がいる(あるいはくだらない編集者がいる)、ということをまずたたき込むことが“高度教育”の端緒になる。著者の思想をまず読み取ること(読み取らせること)が、資料を扱う場合の根本的なスタイルであることを教え込むことが高等教育の(高校までの教育と異質な)独自の位相でなければならない。
逆に言えば、書き手の思想もわからずに、資料を使うというのは、もはや高等教育の教員ではない。資料に出典を書き込むというのは、私が書いたものではない(こんな馬鹿なことを私は書かない、あるいはこんなに優れたほれぼれとする書き手がいる)という学生へのメッセージであって、それ自体が教育的な行為なのである。出典を書き込まない、というのはケアレスミスや怠け者の行為ではなくて、教員がその資料を鵜呑みにしている証拠(か、その書き手のトータルな思想を読み込めていない証拠)にすぎない。自分の専門性の顔を持たない教員の資料の使い方なのである。
ついでに言えば、資料を丸投げで配るのではなくて、前もってマーカーをつけたり、コメントを書き込むくらいの教育的なサービスをしてやってほしい。教員の中には、時間を埋めるために、わざとらしく資料を配付する場合も多い。終わってみたら、資料の2割も触れなかったりする場合もある。資料配付が単なる教授上での安心感にとどまってしまっている。これでは、出典もなるほど書く気がしないだろう。もっと綿密な授業計画を立ててほしい。
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