2002年度卒業式式辞 ― 「自立する」とはどういうことか 2003年03月21日
3月18日中野ゼロホール(http://www.nices.or.jp/02guidance/02-1.htm)で東京工科専門学校の卒業式があり、式辞を話しました。30分くらいしゃべり続けていたらしく、やはりみんなから「長い」と言われて怒られました。原稿なしでしゃべったものですから(だいたいのあらすじは描いていましたが)、脈絡を失い余計に長くなったのかもしれません。しゃべったものを前後を少しずつ補いながら再現してみました。4月には中野サンプラザで入学式式辞(昨年度の式辞http://www.tera-house.ac.jp/profile/2002sikiji.htm)が待っています。いつもこの季節は憂鬱です。
●卒業おめでとうございます。
校長が皆さんの前で話すとしたら、入学式と卒業式くらいのものです。だから、今日は、東京工科専門学校の最後の講義だと思って少し私のお話を聞いて下さい。
ここにいるみなさんは、ほとんど就職が決まっている人たちだと思います。
かつては学校を出て最初に就職する場所(企業)が「定年」まで一生働く場所でした。いわゆる「終身雇用」というものです。「終身雇用」であれば、就職前の実績は一回しか問われません。前歴が一回しか問われないということは、学校以前、学校以後しかありませんから(就職の前は学生時代しかありませんから)、したがって、学校の成績だけが一生の就職を決める要素になります。これを「学歴社会」と言ってきました。「学歴」が一生を決めていたのですから、単なる学歴主義とは言わずに、学歴「社会」と呼んできたのです。
ところが、最近では、大きな会社に入っても辞める人、辞めさせられる人がたくさん出てきました。90年代に爆発的に広がった(今も広がり続けている)インターネット社会が、世の中の変化のスピードをどんどん加速させているからです。既成の人材では間に合わない。あるいは会社の方針決定が遅すぎて耐えられない、など、人材や組織への不満があちこちに吹き出て、組織も人材市場も流動化しているのです。
二次雇用(二次就職)、三次雇用(三次就職)が当たり前の世の中になってきました。そうすると、就職は学校以前、学校以後という学歴採用ではなくなってきます。社会に出てからの仕事の実績が、次の採用を決める大きな要素になってきます。いわゆる「よい」学校を、「よい」点数で卒業したということが就職を決める要素ではなくなり、その後、何をしたのか、できたのかが問われることになります。二次雇用(二次就職)、三次雇用(三次就職)が当たり前になってくると、むしろ学歴は邪魔なくらいになってきます。「いい学校を出ているのに、なんでこんなに仕事ができないの」などと言われるようになるからです。
かつては、終身雇用で、会社の教育を一生受けていく、そしてその教育の諸段階が「主任」、「課長」、「部長」という役職だったのですが、流動性が高まっている、今日の社会や組織では、そういった教育システムは解体し、日々、何をしたのか、何ができるのかだけが問われる職場の環境になりつつある、ということです。突然、よその会社から、「部長」がやってくる、なんてことが日常的に起こってきます。日産なんて、社長までもがよそからやってきました。これは(学歴時代にできあがった)社内の教育システムがもはや機能不全に陥っているということを示しています。
逆に言えば、学校を卒業しても予習や復習によって備えることのできない(前例のない)試験の連続であり、これからこそが、本試験だということです。決して会社に就職することが終わりでも目的でもない。
さて、この本試験の内容は何でしょうか。通常、この本試験の内容は、〈実績〉と言われています。
〈実績〉とは何でしょうか。結果を出せたということです。実績を積むとノウハウというものができてきます。こうやれば、こうなるんだ、ということがわかるようになります。一度成功すると、したがって、続けて成功し始めます。これを「実績を積む」と言います。
しかし、実績とは諸刃の剣です。結果を出すというのは、大変貴重なことであるが故に、結果を出せた人(あるいは会社、組織、商品)には、誰も何を言わなくなります。その人が何を言っても「へー、そういうことなんだ」と周りの人は、信じ始めます。本人自体はウソをつくつもりはなくても誰も注意や批判する人がいなくなるために、実績を出そうと必至にもがいていた頃の試行錯誤の連続を忘れ始めます。
そうやって、いつのまにか間違ったことを平気でやるようになり、最後は大失敗をしでかすことになる。これが実績の〈歴史〉というものです。成功は没落の始まりです。
大企業も永遠に大企業ではない、というのは、この実績の歴史に基づいています。大企業こそ、輝かしい実績の積み重ねの中で大企業になったのですから。しかし、そうやって、自らの巨大な、輝かしいノウハウにしばられて、いつしか衰退していく。平気で大きな過ちを犯していく。謙虚にお客様の声や同僚の声に耳を傾けようと試行錯誤している小さな企業がいつしかノウハウを学んで大きな企業になっていく。それが、企業の盛衰史であるわけです。
そして、この歴史は50年、100年という大きな歴史ではもはやなく、インターネット社会の到来において、はるかに短い時間の中での盛衰史になりつつある。最も時間の長い組織と思われていた銀行や大学がつぶれ始めているのですから、ちまたの大企業はいつつぶれてもおかしくはない。ちまたの小さな工場が、あっという間に大企業になってもおかしくはない、そんな時代にみなさんは、飛び立とうとしています。
この時代は、したがって、外部の指標を見定めたり、成功の教科書を勉強したり、先輩の話をじっくり聞いたり、マーケットの声に耳を傾けても、何もあてにならない時代だということです。
私が、卒業しようとしている皆さんに言いたいことは、したがって、ただ一つ。人にほめられても図に乗らないこと。そして人にけなされても過度に落ち込まないことです。大切なことは、いつであっても自分自身が自分への最大の支持者であること、同じように自分自身が自分への最大の批判者であることです。人にほめられたときには、「こいつ、本当の俺のすごさをわかっていないな」と思って下さい。人に批判されたときには、「こいつ、本当の俺の弱点をわかっていないな」と思って下さい。そう思えるような、自立した人材になって下さい。こういった自立性なしに、〈変化〉の速い世の中で〈実績〉を出すことはできません。
もともと、〈変化〉と〈実績〉とは相容れない概念です。かつてのノウハウが通用しない時代を、変化の時代というのですから、もはや道しるべのない時代に突入しつつあるのです。マーケットも企業も組織も、右往左往し始めています。そんな時代には、自己自身が最大の批判者であると同時に自己自身が最大の支持者でもある人材が唯一、あてになる存在になってきます。過度に自分を信じない、過度に他人の賞賛をあてにしない人間。〈世界〉とは、そういった自己の最大の振幅の中にこそ、存在しているものなのです。それを一言で言えば、「考える」人間、いうことです。〈考える〉ことこそが、その振幅を生み出します。
IBMの社員のデスクの上には、「THINK」と書いた文鎮のようなシート押さえが置いてあるそうです。これは動詞のTHINKです。「考えろ」という命令形です。私もIBMの社員からもらって自宅の机の上に置いています。〈変化〉の時代を演出してきたIBMらしい“社訓”です。もちろんだからといって、巨人IBMが最後まで生き残れるかどうかはわかりませんが。
「THINK」とは、要するに既成のルールや実績にしがみつくな、ということです。毎日が、自己脱皮の連続であるような仕事の仕方をしろということです。それこそが、〈変化〉と〈実績〉という矛盾した事態に答えを出しうる原理だということです。
これが私の、卒業するみなさんへの最後の言葉です。いつか私の仕事の対等のパートナーとして、わが東京工科専門学校へ戻ってきてください。母校で、研鑽を積んだあなたがたの名講義の一つでもしてみて下さい。そしてお互いに、世の中を自ら変えるような大きな仕事をしようではありませんか。それが校長としての私の夢です。私は、そういった人材育成のためにカリキュラム評価、教員評価、授業評価を毎日のように行ってきたつもりです。絶対の自信(自己支持と自己批判の最大振幅の中での)をもってみなさんを変化の時代への人材として送り出す気持ちでいます。これが、東京工科専門学校の最後の講義です。私のみなさんへのはなむけのご挨拶としたいと思います。卒業おめでとうございます。
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