校長の仕事 Part2 2002年11月11日
今日(2002/11/8)はインテリア科2年生の椅子制作実習のプレゼンテーション授業。地下のテラホールで行われた。
この授業は制作した椅子のプレゼンテーションとしてはたぶん普通のできだ。しかしこんな授業をやっていては、高度人材は作れないという意味では失格だと思う。われわれがここ3年継続的にすすめてきた教育改革(http://www.tera-house.ac.jp/profile/ashida01.htm)はここでは全く実っていない。こういった授業こそがこの改革のターゲットだった。
まず最初に感じたことはプレゼンテーション評価についてだ。授業では、学生が自分の作った椅子を前にして、その椅子の制作意図などを一人一人発表していた。一人3分という制約が設けてある。教員が発表終了毎にコメントを加えていた。形としては、古典的なプレゼン授業だ。
このやり方は、以前から問題が多い。学生も教員も個人的なコメントの応酬になる。何を発表すべきなのかの共通の認識がない(“個性的な”発表に終始している)。教員も学生の発表のフォローをするという形のコメントしかできていない。だから私が飛び入りで質問すると教員が学生をかばってしまう。結局、その作品としての椅子が、どう成功しているのか、どう失敗しているのか誰もわからずに発表が終わっていく(わかっているのはその椅子の好き嫌いだけだ)。聞いている学生もほとんどが学生や教員のコメントについてノートを取ろうとしていない(個人的に聞いている)。学ぶべきコメントなど(あまりに個人的で)どこにもないからだ。
たとえば、私が板の目の使い方に違和感があったので飛び入りの質問してみると学生からは整合性のある回答を得られなかった。教員はそれをフォローする形で、「何分にも、教材購入上の経済的な制約がありましたから」というコメントが続く。このコメントは、続く学生の発表でも見られた。これはコメントではない。教育にとどまらず、どんな椅子制作にも「制約」はある。むしろ実務現場の方が制約が多いくらいだ。だから、椅子批評の原理は、プロのデザイナーが同じ素材と制約の中で、あるいは同じコンセプトで作ったとしたら、このように作っただろうか、というものでなければならない。まず、そこに満点のイメージを置いて、そこからの減点ポイントを指摘することが教員コメントでなければならない。「制約」があることと評価が甘くなることとは何の関係もない。この教員は指導上の観点をすでに外しているのである。だから、その場に参加している全員が、椅子の評価をできないでいる。一体この椅子でいいのか、悪いのか。少なくとも授業指導は成功したのか、していないのか。〈個性〉ばかりが目立つ授業には〈教育〉が欠けているのである。
さて、椅子評価が個人的だということは、当然のことながら、椅子そのものの仕上がりも個人的なものになってしまう。たとえば、釘の使い方。座面に釘を何十本も無造作に打たせている。この釘は数年(あるいは数ヶ月)使うと必ず浮いてきて怪我をさせたり、衣服を引っかけることになる。たとえば、強度の問題。背中を押し当てるとミシッと悲鳴をあげる背板の椅子がいくつかあった。これでは安心して座れない。たとえば、足の突端が地面に並行していないため安定せず、コトコトと据わりが悪い。
ほんのいくつかの椅子に座っても、この程度の欠陥が目に付く。というより、これらの症状は、椅子の存在をなさない致命的な欠陥である。椅子は(どんなモダニズム理論、ポストモダニズム理論をもってこようが)座るためにある。個性が花咲くとすれば、その要件を満たしていなければ意味がない。
専門学校の「インテリア科」の学生が二年の卒業年次で作る椅子があるとすれば、それは第一に椅子の基本要件をすべて満たしているものでなければならない。
なぜか。中学校や高校の技術家庭で作る椅子はむしろデザインは優れていても座れない椅子の方が多いからである。つまりデザインは個性(才能)だが、座れる椅子は教育しないと作れない。だから、座れる椅子とはどういうものか、そのためには技術的にどんなことが必要になるのかを理解させることが大切なのである。たとえば椅子にとって強度が問題になる場所はどこか。その場合の強度を持たせるための技術にはどんなものがあるか。また、強度とデザインという時として対立する問題をどんなふうに解決するのか。そういったことにどんな事例が存在しているのか。これだけ教えるだけでも何時間もかかるし、一科目にもなりうる。こういったことは、“個性的に”処理できない。まさに専門教育の分野である。もし高校以前と専門学校以後という差異が(真っ先に)問題になるとすれば、デザインや発想ではなくて、技術なのである。デザインや発想は教育なしにでも(ピンからキリまで)出てくるが、技術は学ぶことなしには何も出てこないからだ。専門学校の教育が実践的であるとは、デザイナーを作るのではないということにあるのではない。そうではなくて、教育の対象(学ばないと一歩も先に進めないもの)に集中するということである。
デザインということについても気になったことがある。椅子についての解説(学生、先生ともども)が、椅子そのものに集中しすぎだということだ。椅子の純粋デザインについていつも思うことは、それが、どんな空間に置かれることを想定しているかということだ。どんな部屋に、誰が座るのか、座って何をする椅子なのかということを想定しないような椅子は存在しない(存在してはならない)。
私事にわたって恐縮だが、私が三年前に引っ越したきっかけは、実は“椅子問題”だった。マッサージチェアが欲しくて買ったのだが、買って以来、私のリビングは一挙に小さくなり、いるのもいやなリビングになってしまった。こんなにも我が家のリビングは小さかったのかと。それが引っ越しのきっかけだった。世の中に出回るマッサージチェア(と健康バイスクル)は、リビングが20畳以上ないと造形上は様にならない。最近はそれを気にしてか小振りのマッサージチェア(と健康バイスクル)が増えてきている。
学生の発表する椅子を見ていると、少なくともこの学生たちの家では絶対使わない(使えない)、造形上合わない椅子だな、というのがいくつもあった。いったい誰(のどんな部屋)に向かって、この椅子はつくられているのか。その観点(の解説)がすべての椅子に抜けている。その椅子自体の造形や使われ方にばかり解説が集中しており、椅子が部屋の中にあるということが忘れられている。大きさも物理量ではない。売り場で見るチェアーは小さく見えるものだ。実際自分の使う部屋に置くと大きすぎたということは、何もマッサージチェアだけの問題ではない。これらもしっかり教えないとクリアできない課題だ。“個性的”には処理できない問題だからだ。
要するに、この椅子制作の発表会には〈教育〉が欠けている。少しばかり整地された個性が存在しているだけで、〈インテリア教育〉が不在なのである。講師はギブソンの主張した「アフォーダンス理論(Affordance Theory)」を口にしていたが(これはほぼ私の分野だ)、椅子が置かれる部屋や使用者との関係に学生が言及しないで何を「アフォーダンス」と言うのだろう。
この教科担当者の先生は武蔵野美術大学建築科、東京工大大学院坂本研究室を修士修了して、現在は、千葉大や日本工業大学で非常勤講師を務めている。コンペ受賞歴もたくさんある「高名」な講師らしい。しかしだからこそ、こういった前近代的な教え方しかできないのだ。建築の世界もインテリアの世界も、大工が弟子に教える仕方から(未だに)一歩も出ていない。大学であろうと大学院であろうと徒弟制(もっとも経験主義的な教育)に変わりがない。だから個人的な批評の応酬にしかならない。何をいつまでにどの程度教えなければならないかが何一つ明らかではないのだ。こういった仕方で大学の先生を甘やかせてはいけない。こういったエセ大学的なプレゼンをやってはいけない。これがいいと思うのは大学や大学院(ルーズな大学や大学院教育)への郷愁にすぎない。学歴コンプレックス(か職業教育に対する差別)にすぎない。
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