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 『友へ』と『ブラックホーク・ダウン』(最新レンタル映画批評) 2002年10月27日

 今週の推薦映画は、『友へ』と『ブッラクホーク・ダウン』。二つともレンタルビデオショップの最新版でレンタルしています。

 韓国で話題沸騰の『友へ』(http://www.chingu.jp/)。韓国映画は、『シュリ』(http://www.amuse-pictures.com/shuri/)、『JSA』(http://www.eiga-portal.com/movie/jsa/01.shtml)、『カル』(http://www.seochon.net/korean_movie/movie/tellmesomething.htm)』『ユリョン』(http://www.koreanavi.com/entertainment/cinema/20010302-1.html)に続いて五作目の鑑賞だ。どれもこれも日本映画よりはるかに面白かった。インターネット普及(環境)でも先を越され、経済再建にも先を越され(日本もIMFを入れた方がいい)、映画でも先を越され、女性(ユンソナhttp://www.horipro.co.jp/talent/AI005/)でも先を越されている日本。嗚呼、日本。

 『友へ』は内容的には新味はないが(内容的には『アメリカンヒーローX(http://articles.zdnet.co.jp/db/dvd/0009a06.html)』と小津安二郎の映像を思い出した。全編を貫く心理的質という点では、『アメリカンヒーローX(http://articles.zdnet.co.jp/db/dvd/0009a06.html)』の方がはるかに上質)、しかし、ジュンソク役のユ・オソン(http://www.hana1.jp/dvd/yos.htmlhttp://www.seochon.net/korean_movie/actor/yuoseong.htm)とドンス役のチャン・ドンゴン(http://www.seochon.net/korean_movie/actor/jangdonggeon.htm)が、サイコーだ。表情が最高だ。こんな名優、日本にいただろうか。この二人の掛け合いを見るだけでも価値がある。二人が向かい合うだけでどきどきするくらいだ(私は、個人的にはユ・オソンの方が好きだ)。『シュリ』、『JSA』、『カル』、『ユリョン』のどれも、韓国俳優ここにあり、という作品ではなかったが(設定やカメラで日本映画を凌いでいたが)、ユ・オソン、チャン・ドンゴンはすごい。

 『ブラックホーク・ダウン』(http://www.eigafan.com/New_info/Review/bhd/main.html)。1994年のソマリア紛争に介入したアメリカ軍の“実話”を描いた映画。みんな死んでしまうのではないかと思うほど絶望的な状況に若い兵士達が飛び込んでいく。最初に“実話”と出ていたが(これが最後まで気になっていた)、みんな死んだとしたら、この映画は何に基づいて“実話”なのか、訳がわからなくなるので、たぶんひとりくらいは生き残ってくれるのだろう、と切なく願うくらいに絶望的なシーンが続く(というのも同じ“実話”と言っておいて、みんな死んでしまった『パーフェクトストーム』(http://www.sankei.co.jp/mov/review/2000/parfect_s/index2.html)で“実話”には懲り懲りだったからだhttp://www.ashida.info/trees/trees.cgi?log=&v=134&e=msg&lp=134&st=0)。

 ソマリア紛争(http://www.geocities.co.jp/CollegeLife/5585/somalia.htmlhttp://www.4gamer.net/news/history/2002.05/20020528004024detail.htmlhttp://www9.big.or.jp/~haro/Somali.html)の是非を論じる力は私には全くないが、こういった映画を見ていると、軍隊とは、いい意味でも悪い意味でもヒューマンな存在だと思う。ひとりの兵士を救うために多くの兵士が死んでしまう。(たった)ひとりの兵士を救う理由ははっきりしている。そうやって、軍隊としての組織的な志気を高めるためだ。“俺の命も、そうやっていざとなれば仲間=組織によって救い出されるのだ”という確信を高める。そうやって、より多くの「敵」を殺すためにこそ、ひとりの仲間のために多くの死を犠牲にすることもある。それが軍隊だ。

 軍隊は形式的で秩序だったラインで動いているように見えるが、そういった形式性の根拠は、むしろだからヒューマンなものだ。一兵卒に至るまで武器(人を殺せる武器、場合によっては気にくわない上長でさえ殺せる武器)を持っている軍隊に形式的な組織論が通用するわけがない。ひとりの兵士のために多くの兵士が死ねること。そのヒューマニズムが軍隊を形成している。『プライベートライアン』(http://www.geocities.co.jp/Colosseum-Acropolis/3063/pryan.html)も文字通りそうだった。軍隊とは、本質的に私的であり、ヒューマンなものだ。五味川純平(http://www.asahi-net.or.jp/~pb5h-ootk/pages/G/gomikawajunpei.html)の描く軍隊の「非人間性」といったものも人間性の隠喩(しかも三流の隠喩)にすぎない。

 私は、こういったヒューマニズムが大嫌いだ。“人間”とはそんなに大切なものなのか。戦争というものがこの地上からなくなるとすれば、それは、ヒューマニズムがこの地上からなくなるときにだけだ。だから、戦争も軍隊も永遠になくならないかもしれない。拉致された5人を見ながら涙を流しているようでは、戦争も軍隊もなくならないかもしれない(http://www.ashida.info/jboard/read.cgi?num=68.60.3)。

投稿者 : ashida1670  /  この記事の訪問者数 :
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