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 社会人教育と高等教育(1) 2002年10月03日

リクルートの『カレッジマネジメント』(大学・短大・専修学校経営者向けの雑誌です)から連載原稿を頼まれました。以下はその一回目の原稿です。

社会人教育から高等教育改革へ ― なぜ社会人教育は停滞するのか(1)

●社会人教育の教育的停滞 ― 高等教育はなぜ社会人教育に取り組めないのか

大学や専門学校で、社会人教育が進まない理由ははっきりしている。それは講座や授業の目標・評価の体制、要するに講座管理や授業管理の体制が整っていないため、〈外部〉の受講者が複雑な仕方で出入りする社会人講座を展開することなどできないということである。

たとえば「シラバス」通りの授業をやれている授業がどれくらいあるのか、「シラバス」通りやれていると言えるためのどういった講座管理の体制がとられているのか、このことだけでも学校関係者からは明解な答えは出てこない。せいぜい学生や受講生の“授業アンケート”どまりにすぎない。そして学生授業アンケートは、結局のところ学生批判に終わり、授業改善には繋がらない。

特には90年代初頭から始まった大学の自己点検・自己評価もここにだけは手を付けてこなかった。というか、まさに授業評価だけは教員の「自己」点検・「自己」評価にとどまっていた。個人的な評価ということである。もちろん自己点検・自己評価と個人評価とは似て非なるものだ。個人評価は無評価にすぎない。〈授業評価〉は、いわば学校の“伏魔殿”だったし、いまでもそうである。

社会人教育は社会人大学院のようなものでないかぎり、講座を単独で“買う”形を取るため講座のパンフレットとも言える「シラバス」通りの授業ができないと〈商品〉として“売る”ことができない。また講座の期間も大学のように通年タイプや前期・後期タイプのものは少なく、単独の講座としては一ヶ月でも長いくらい。期間が短いため、消化のちょっとした遅れを挽回する機会が少なく、内容のスケジュール化も厳密なもの(時間単位のシラバス)が求められることになる。

しかし「シラバス」通りの授業というのは、一朝一夕にはできない。これは、「シラバス」通りの授業が皆無だということではなくて、何をもって「シラバス」通りの授業ということが言えるのかの評価指標が皆無だということである。事実上、それは個々の教員任せになっている。評価の定まった講師や人寄せ的な“人気”講師であれば、“自己評価”も許されるのかもしれないが、そういった教員はほんの一握りの教員にすぎないのだから、個々の教員任せという事態は、評価がないことと同じである。特に大学や専門学校という高等教育機関の授業評価は、その専門性も相対的に高く、“他者”が入り込みづらいという面もあって、評価指標の形成をより困難なものにしている。

●高等教育自身の教育的要因

講座管理、あるいは授業評価が進まなかった要因は、他にもいくつもある。

大学の場合には、

1)講座(科目)と講座(科目)との関係がそれほど緊密ではないために、講座(科目)の教育目標達成について、特にその講座の“外部”から大きな注文や不満が寄せられることがないということ。その意味では大学には〈カリキュラム〉 ― 4年間の全体で仕上げる人材目標からするカリキュラム(科目の前後関係についての思想) ― というものが実質的には存在しないということ。4年間の中で大学の気風に染まるという意味での“深化”はあるかもしれないが、一部の語学教育以外には、1、2、3、4年とリニアに専門性が深化していくというふうには実質化していない(特に文系ではそうだ)。あるとしたらゼミなどの授業形態による深化であって、それはカリキュラム成果ではない。たぶん、今の大学の4年間の全体は、1年間の周到に準備されたカリキュラムの存在で充分代替できるだろう。

2)もちろん講座に対して何らかの批判や注文が寄せられる場合はあるが、あっても最後には学生の「基礎学力」低下といった抽象的な問題などにすり替えられ、その学生に赤点を付けること(=学生批判)によって、解決を見ることがほとんどだったこと。つまり講座批判は学生批判にすり替わってしまう傾向にあったこと。

3)そういった無責任な学生評価であっても選択科目の多さや時間割がそれほどタイトではないという科目履修上の柔軟さが、学生不満を深刻化させない役割を果たしたこと。落第しても他の科目でなんとか代替できるという時間割上の“余裕”が科目履修評価の杜撰さを隠し続けているのである。

4)結局、専門性、あるいは講座の過度な自立性という壁が講座(科目)評価をカリキュラムからさえも不可能にしてしまっており、時間割や履修上のルーズさがそれを放置する体制になっていたということである。

専門学校の場合には

1)大学よりは統一した人材像からのカリキュラムが存在しうる要素が高いが、逆に時間割上、履修がタイトなため厳密な評価は留年者や退学者の増大を意味することになる。そのため、補習・補講、追再試が日常化し、科目そのものの教育評価が曖昧なまま放置されることになる。

2)実習授業が多いため、実技試験や作品評価が多くなり、評価の客観性や全体性に関して曖昧になる要素が高い。その分、科目の教育力評価が難しくなり、評価が個人的・主観的になりがち。

3)実習が多いこととも関係するが、特にデザイン系などでは、個性、創造性、総合性などがカリキュラム開発の重点になりがちで、こういった目標設定が科目評価を曖昧にしている。科目評価ということで言えば、個性、創造性、総合性教育はすべて評価を拒絶した教育に他ならない。それなりの学生をそれなりに育てる、という学生個人評価が前面化し、教育側の教育力評価はいつも棚上げにされているのが実情。

4)担任制がまだ幅をきかせており(あるいは場合によってはますます幅をきかせており)、学生の教科(科目)への不満が、教務指導(授業指導)へ向かわずに、学生指導へ解消されがち。科目の目標設定や評価が、学生指導という“人間主義的”な指導や評価によって曖昧にされている。そして大概のところ、学生指導は学生批判に終わり、余計に授業改善には向かわない。

大学も専門学校も、こういった諸々の理由から(他にもあるだろうが)、授業評価・科目評価ができないままの教育を行ってきた。大学では個々の講座が過度に自立的であるため、評価が内閉的になる。専門学校ではカリキュラムの統一性が強すぎて、個々の科目評価が曖昧になる。たとえば〈資格〉に合格さえすれば、あるいは〈作品〉が仕上がれば個々の科目評価は棚上げにされるといったように。

どちらにも欠けているのは、各科目(講座)評価の外部評価に耐えうる客観性だ。そういった仕組み作り、要するに講座管理を長い間怠ってきたため、科目の単独買い ― これほど厳しい外部評価はない ― に耐えうる講座を編成したり、それを実行管理するノウハウができていない。

「科目等履修生」といった講座の単独売りとも言える仕組みも結局のところ、科目評価というよりは、教員評価(“実績”のある先生や“有名な”先生)に多分に依存しており、それは科目評価の存在を必ずしも意味していない。実績のある、有名な先生が必ずしも良い授業を行うとは限らないからである。教員評価は科目評価(授業の実際における教育力評価)なしには存在しても意味がない。教員は市井の(話しっぱなしの)評論家ではないからだ。

●マーケット側からの問題

教育ノウハウ(特には講座管理のノウハウ)でさえ貧弱な現状で、マーケティングノウハウということになるともっと貧弱なものでしかない。少子化以後でも、高等教育機関でマーケティング意識が生じづらい状況が続いている。

大学では、偏差値秩序がいい意味でも悪い意味でも比較的安定していたこと、つまり日本の大学では、その大学の実力は入学する学生の能力によってはかられており、出口の能力を指し示す指標が皆無であったこと、その分、下位教育の予備校側が準備するマーケットに依存し続けたということである。逆に言えば、上位の進学先がない、あっても就職先企業という曖昧なマーケットしかなく、また企業の方も大学評価が事実上偏差値評価でしかないため大学教育の内実に関心を持つことはほとんどないことが、大学が入り口・出口のマーケティングに関心を持たない理由だった。

専門学校も多くは資格・免許といったできあいの目標に依存した学生マーケットにすぎず、また資格・免許合格が自己目的化しはじめると、本来の実務教育の意味(出口の企業側との交流)も希薄化し、大学とは異なった独自の人材目標からする独自のマーケット開発という課題は最初から放棄されていたのである。実務教育・職業教育の専門学校といいながら、実体は資格・免許教育のマーケット(特には官許的なマーケット)に安住し続けていたわけである。教育分野での規制緩和が進めば、たちどころに消滅するしかない形式的なマーケットに依存しているのが専門学校の“市場”であり、教育的能力とともにマーケットの実体もほとんどないに等しいとも言える。

少子化現象がやっとこういった軽薄なマーケット意識を変えつつあるが、それはそれで今度は極端なマーケット意識が前面化し、どこに金のなる木が落ちているかといった拝金主義か、矮小化された広報戦術(学生募集戦術)にばかり議論が集中している。

ここでも忘れ去られているのが、学生を前にしての教育力の開示ということだ。募集(購買者)の前には普通、商品内容の提示というものがなければならない。

〈学校〉で言えば、この学校を卒業すればどんな実力が身に付くのかといった教育目標とその達成プロセス(カリキュラム)の提示が“商品説明”のすべてになる。教育的なマーケット論が始まるとすれば、ここにしかない。しかしこの“説明”こそ、「学校」という組織が一番苦手な仕事だったのである。学校というものにマーケティング意識がないということの最大の意味は、教員担当者以外(あるいは場合によっては担当者さえも)何を教えてるのかわからない、ということだったのである。大学に入り口における偏差値(=学歴)と資格・免許という自らが全く関与しない社会性だけが高等教育の商品性(商品の公開性)を形成していたのであって、それ以外には“商品説明”の実体は何もなかったと言える。

単独講座の内容をいくら説明しても ― あるいは「シラバス」を長々と書き続け、講座内容を詳細に説明しても ― 、それが4年間のカリキュラム成果とどう繋がっているのか、わからない。というのも自分の講座以外に関心のある“教授”はいないからだ。また専門学校において資格試験に合格することが、何が〈できる〉ことを意味するのかも決して明確ではない。合格率を上げるということは単に受験テクニックの問題にすぎないからだ(就職率をあげることすら指導テクニックにすぎないこともある)。中途半端な実務教育への関心は、それ自体合格率を下げる要因にもなりかねない。その意味でも、高合格率は〈実務〉に対する熟知の成果でも何でもない。

教育面からもマーケット開拓という点からも、学生教育の弊害(社会人教育展開への)は二重三重に重いものになっていたと言える。

●社会人講座開発が進まない場合の実際

実際にそういった講座管理が希薄なまま社会人教育をやった場合、何が起こるだろうか?

まず第一に、長期であれ、短期であれ、それっきりの講座がただ並列的に並ぶだけということになる。この並列的というのは、受講生募集では深刻な問題を引き起こす。その都度の講座展開毎に受講生を募集しなければならないため、募集力(広報力)に過大の負担がかかるということだ。リピータを期待できない。

一つの講座に入れば、その次の課題が展開する、あるいは一つの講座を理解するためには手前の“基礎”講座を受講する必要があるというように講座の前後がまた講座として展開するという仕組み(これこそがカリキュラムというものだが)を考えないと、いつまでたっても、募集が講座毎に単独化し、孤立する。一度入学すれば、2年間、4年間学費を支払い続けてくれる学生募集に慣れてきた〈学校〉にとって、たいした売り上げが期待できるわけでもない単独講座の募集がさらに単独化することは耐えられないことだ。

もちろんこれは、大学人にカリキュラムは作れない、ということではない。たしかに「それならカリキュラムくらい書いてあげましょう」と“教授”は言ってくれるが、自分でその講座全体の講師を務める気はない。まして教材を作る気などまったくない。

“教授”は企画はするが、実行者にはならない。だからどんな「カリキュラム」も絵に描いた餅になる。だから自分で実行できる程度の講座(自分の研究の邪魔にならない程度の講座)しか持たない。もちろん他の講座の担当者について「紹介はするよ」と言って若手研究者を紹介してはくれるが、講座指導は皆無。「紹介」だから、こちらから積極的に指導もできない。そうやって小講座が単独化し、乱立する。単独化し乱立した講座群は、当然その講座の下位講座が存在していないため、その講座を受講するためには「それなりの知識や技術、あるいは経験が必要」などと(“教授”たちに)言われて、マーケットを極端に狭められたり、毎日休まず受講しても「これだけではまだほんの序の口」と言われてどこで成果評価すればよいのかわからない状態に陥る。講座が恣意的に(講座の手前も講座の行く先も無限定なまま)切り取られているため、まともなマーケット展開ができないのだ。これでは、経営的に長続きする講座にはならない。それが、大学社会人講座の限界のすべてだ。大学の「生涯教育」が「文化講演会」になってしまうのもそれなりの理由があるのである。

実務家を講師として集めた社会人講座も事情はほとんど変わらない。実務家の場合は、大学人よりも遥かに経験的であるがゆえに、講座内容の前後の連続性(いわゆる体系性)を確保するのが難しい。講座の内容があらかじめ明確に限定されている場合は効果を上げることができるが、諸講座が経験的に断片化するという点では大学人講座と同じ。

したがって大学人と実務家が交互に入れ替わるような講座体制 ― 外見では〈理論〉と〈実践〉の相乗効果を期待できそうな講座体制として良さそうに見えるが ― になると目も当てられないことになる。たんなるパッチワークのような講座体制でしかないからである。そもそも「岩波講座」(「文学」でも「世界歴史」でも「哲学」でもなんでもいいが)と銘打っても、そこで錚々たる編集委員による「編集委員会」なるものが存在していても、書かれているものには何の一貫性もないものがほとんどであること ― 場合によっては読みすすめば読み進むほど腹が立ってくるものさえあること ― を考えると、生身の講師陣で生身の社会人を教える生身の講座を連続性を確保しながら細分化、短期化していくことは至難の業なのである。(続く)

投稿者 : ashida1670  /  この記事の訪問者数 :
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