軽井沢セミナー旅行記(最終回) 2002年09月02日
中之条までは暮坂峠(http://www.fsinet.or.jp/~minoue/tohge2/kuresaka/kuresaka.htm)が長く、退屈なドライブだった。ここには若山牧水の銅像と詩碑があるがそれ以外には面白いものがない。それにしても「暮坂峠」。いい名前だ。日が暮れてしまうほどに時間がかかる長くつらい峠だということだろう。一度走るとそれがよくわかる。名前も忘れない。ここを越えないと中之条方面からは草津温泉へいけないのだから、草津温泉というのはとてつもなく辺境の地にある、と再認識させられた。牧水の詩碑には「枯野の旅」(http://www.aozora.gr.jp/cards/wakayama/htmlfiles/karenonotabi.html)が刻まれていて、その中には「上野(かみつけ)の草津の湯より 澤渡(さわたり)の湯に越ゆる路 名も寂し暮坂峠」とある。
中之条に近づいてからは、小渕事務所に連絡を取って秘書さんに中之条を案内してもらった。まず行ったのは林昌寺(http://www.nakanojo.com/bunka/machi/rin.html)。小渕さんのお墓がある。境内にある墓団の先頭に新たなスペースを割いて、立派な、厚さ30センチ近くの一枚ものの石板を何枚も重ねたお墓があった。ここは、しだれ桜の名所らしい。ここから歩いて数分のところに最近建立された小渕総理の銅像がある(http://www.ksky.ne.jp/~kksunaga/zouenbu/obuchi-douzou.htm)(http://www9.plala.or.jp/v6781kazu/sanada/nakanjyo.html)。「ツインプラザ」という町の文化センターのようなところに銅像は建っていた。彼の左手をつかんで記念写真を取るための高台まで用意されている。銘辞には「天の時、地の利、人の和」とある。待つことをよしとした小渕さんらしい銘辞だ。彼が死んだのは自民党が公明党と組んだことが原因だ。小沢一郎(自由党)が去っていったのも、それが一番大きな原因だった。自民党も、公明党と組むくらいなら民主党と組んだ方が遙かに良かったのに、バカなことをしたものだ。
そうこう思いながら、おそばのおいしい「たけやま館」(http://www.town.nakanojo.gunma.jp/take.html)に連れて行ってもらった。そば屋にしては建物が立派で、そばはそばでそばらしい味がしていた。東京の細工だらけのそばを食べている人にはものたりないだろうが、そばはもともとこんなものといった味だった。ここには日本画家の平松礼二(http://www.gallery-shiraishi.co.jp/hiramatu/)の絵の展示場まである(なかなか面白い色を出せる画家だ)。そば屋にしては建物の構えといい、平松の絵といい、様子がおかしいと思っていたら、何と町営のそば屋だった。公務員が作ったそばなんて、社会主義国の新聞を読むようなものだと食べてから思ったが、もう遅い。ここの町長は、小渕総理のお兄様(http://www.town.nakanojo.gunma.jp/aisatu.html)らしい、ということもそのとき知った。
「たけやま館」をあとにして、次は「薬王園」(http://www.wind.co.jp/yakuouen/)を案内してもらった。ここは、アロマテラピーなどの「ハーブ館」があったり、健康食品などの“グッズ”がそろっている。ちょっとした健康診断ができる園内の「薬王館」に入ったが、そこで眼科検診をしたら、最近の眼科検診は両目を同時に検診できることにまず驚いた。しかし結果にショック。右が0.5 左が1.5。左右の差が大きすぎる。どおりで右の肩がよくこる。最近、小さい字が近くで読めないし、夜は自動車のライトが滲んで見える(なさけない)。遠視か近視かわからない状態。眼でショックだったから、体脂肪率なんてぜったいにはからないようにしようと、さっさと出てしまった。「薬王館」を出たら、健康食品の館があって、目にいい小粒で野生種の「ブルーべリー」が安い。眼科検診があって、まるではかったようにブルーベリーが置いてあるのがにくい。大きな袋いっぱいに入って5000円で手に入れた。一日5粒食べても3ヶ月はもつ。東京なら1万円はするだろう。
ここで、すでに4時をすぎていた。このままでは、練馬インター出口の渋滞にぶちあたる。いそがないと、と思って、「もうそろそろ」と秘書さんに告げたら、「お送りしましょう」といって、「月夜野インター」まで先導して頂いた。「月夜野インター」の方が途中の道がすいていて早いらしい。名所名所で写真も撮って頂いて親切な秘書さんだった。感謝しています。
一路、東京へ向かったが、中途半端に混んでいる高速道路は退屈そのもの。ハンドルを切り続けた暮坂峠がなつかしい。あまりの眠たさに「三芳」で、休憩。練馬5キロ渋滞と出ていたので、これから勝負だと覚悟したが、近づくとそれほどでもなかった。料金所では大渋滞だったが、こんなときこそETC (http://www.jhnet.go.jp/etc/p01.html)が役に立つ。こういった大料金所ではETC専用レーンがあるはず。少し進むとありました、ありました。隣接する何重ものレーンは、大渋滞だのに、専用レーンだけはがら空き。誰も通っていない。そこへ私の車。さっそうと(かつさりげなく)通り抜けた。このおかげで、難所の練馬インターは4〜5分で通り抜けることができた。それもこれもETCさまさま。ETCのこんなメリットは、不人気の今のうち。みなさん、今こそETCですよ。
練馬から環八を南下して(もちろん、ガソリンスタンドで洗車をして白根山、草津温泉の硫黄を洗い流し、かつ、人に言えない超高速で走ったための前バンパーのいくたの虫の死骸も洗い流して)自宅へ戻ったのが、夜8:00すぎ。“ディナー”は、三人ともつかれていたので、洗車の間に、吉野家20号上北沢店(http://www.yoshinoya-dc.com/yoshinoya/shop/index_j.html)の牛丼を食べてすましていた。
この上北沢店の吉野家は驚いたことにセルフサービス。私の好きな紅ショウガまで、席を立って取りに行かなくてはならない。おまけに飲み物の自動販売機まで店内にあってそれを買って飲んでもいいことになっている。吉野家の牛丼を旅の終わりのディナーとして家族で食べるだけでも気が引けるのに、カウンターに並んで牛丼を入れてもらって、お茶、紅ショウガまで取りに行き、やっとテーブルに着くというのは、もはや究極の屈辱。家族全員が囚人になったような気がした。店にいる顧客全員が囚人服を着ているように思えた。
考えてみると吉野家にしては広い店構え。たぶん、カウンターを囲む形式では店員の移動距離が長くなって、管理ができないのかもしれない。要するに吉野家にしては店舗面積が大きすぎるのだ。あるいはどちらかといえば住宅街なので、テーブルで囲む形式にしたかったのか。詳しくはわからないが、しかし家族同士テーブルで囲んでも、囚人の給食用のようなトレイをもって店内を歩いたり(トレイで運ぶから家族ひとりひとりが店内をうろうろすることになる)、憩いのテーブルをトレイで埋めるのはさまにならない。軽井沢プリンスから始まった旅が吉野家で終わった(なんという貧しい旅であったことか)。トリップメーターは前日自宅を出たときから数えて508キロを指していた。乗っても乗せても快楽、低速は低速で高速(超高速)は高速(超高速)で快適なドライブを演出してくれた愛車に感謝。
●今回の旅行の反省
1)やはり、旅行と言うからには、もう少し調べておいた方がいいかもしれない。私はただドライブがたのしくて走っていただけかもしれない。『るるぶ』よりも遙かにインターネットの方が旅行情報が手に入りやすい。旅情報は(旅情報も)断然インターネットだ。私は、この「芦田の毎日」を書くために参照したインターネット情報の方がはるかに役に立った。写真を撮らなくても記念写真がある。何という時代になったことか。終わってからではすべてが遅いが。
2)私の家は、世田谷南烏山。軽井沢方面を目指すなら、関越ではなく、中央高速から入って、諏訪湖から長野自動車道。更埴ICから上信越自動車道。信州中野ICから志賀高原を目指し、そこから万座へ下ってくる(そして軽井沢)というコースも面白かったかもしれない。あるいは往きは仕方なく練馬を使って、帰りは万座温泉から草津へ向かうのではなく志賀高原を目指し、中央高速を帰路に使うというコースだ。とにかく、関越練馬IC(谷原交差点と井荻トンネル)は、どんな旅も台無しにする。そこを避けるコース設定が必要だ。要するに環八を練馬ICへ北上するというのは、それ自体が旅のようなもので、しかもサイテーの旅だということだ。
3)軽井沢プリンスのコテージは、寝っ転がる場所がない。西館の6名、8名タイプだとソファーに寝っ転べそうだが、東館の4名以下では、ホテルルームを選んだ方がまだましだ。私は、自宅では和室のない生活だが、せめて旅先では寝っ転がる空間がほしい。気持ち余って、コテージのベッドに思い切り転がったら、スプリングがやわからすぎて落ちそうになった。何と安もののベッドであることか(プリンス系ホテルというのはそもそも三流であることを忘れてはいけない)。せめてシモンズベッド(http://www.simmons.co.jp/)くらいは置いてほしい。
4)軽井沢は、万座、志賀高原、白根山、草津などと半日、数時間でどこにでも行けるなかなかの拠点だ。そんなことが20年ぶりの今頃わかった。ここに数日間滞在すれば、どんな楽しみ方でもできる(やはり)結構なリゾート地である。ただし、ここに一週間滞在するとそれだけでグアム旅行1週間以上の出費を強いられる。むずかしいところだ。旅行好きではない私には、どちらを取るとも言えないが、海外旅行には海外旅行で国内とは別の気分が味わえるとのこと。いずれにしても、こんなものにまでこりはじめるといくらお金があってもたりないことになる。いいものは確かにいいが、結局はお金ということか。なかなかさびしいことだ。ゆっくりとした旅行は隠居するまでお預けということか。
5)来年はもう息子も大学受験で、旅行ができないという意味では、家族3人の旅行はこれが(ひょっとしたら最初で)最後かもしれない。大学へ行けば、家族旅行などする気も起こらないだろうからなおさらのことだ。息子は、思っていたよりこの旅行を楽しんでいたが、この旅日記をまとめていた矢先、その息子の将来に異変が起こった。帝京高校のサッカー部と国見高校のサッカー部から同時に入部のオファーが来たのだ(なんということだ)。
6)息子の現在の高校のサッカー部(息子は都立戸山高校2年生。サッカー部キャプテンでフォワードをつとめている)はこの間の都大会の予選では都立板橋高校に(なさけないことに)一回戦で負けた弱いクラブだったが、その試合を見ていた帝京高校の総監督小沼氏と国見高校のコーチに同時にスカウトされてしまった。サッカーなんて特に小学校では何もしていないし、中学校では野球部。途中でサッカー部に転部。高校に入ってからも最初はアメフトに入って、それからサッカー部。いずれもいい指導者に恵まれず、どちらかといえば不運な方だった。才能を発揮するには特に小さいときからの訓練が必要なサーカー競技。それがこんなことになって、喜んでいいのやら。30日の金曜日、夕食時に突然「オファーがあったんだけど」なんて言い出す始末。私は「東大からはオファーはないのか」とお茶を濁しておいたが、本人は結構真剣そう。
7)小学校や中学校ならいざしらず(私も中学校まではこう見えても“優秀な”テニス選手だったが、高校生の時にはもはやスポーツではない、というくらいには“成長”していたと思う)、いい年をしてスポーツを真剣にやるやつなんて、たとえ世界レベルで活躍しても(“ロナウド”であっても)どこかおかしい。彼らには〈世界〉概念が欠如している。
8)“現役”という概念が長く続かないような領域は、それ自体三流の世界のような気がする。本当の専門家(つまり“一流”)というものは、死ぬ寸前まで自分を現役として研鑽できるかどうかに関わっている。スポーツの世界にはそれが欠けている。盛りを過ぎれば、過去の郷愁を追うか、(スポーツをやっている割に)常識的・社会的な能力がある人として関係業界に指導者として残るかそれだけのことだ。どちらにしても人生は終わっている。こういった人生は、むしろ普通の、大概の人が歩む人生だ。どんな職業人でもほとんどの人はみんな郷愁か常識で40歳以降を過ごしてしまう。スポーツマンという人はその意味で(面白くもない)普通の人たちの代表なのだ。要するに底が浅い世界だということだ。40歳、50歳になってますます輝きを増すような(40歳、50歳でもまだまだというような)領域にこそ、自分の一生を費やす領域がある。そこをこそ、若い感性で見抜いてほしい。
9)結局は、ゴールを入れる楽しみと勉強が面白いという楽しみとどちらを取るかだ。息子自身の問題だ。確かにサラリーマンになるのも先が見えている世の中だし、東大を出て官僚になるくらいなら、サッカー選手の方が面白いかもしれないが、しかしこの年齢(17、18歳)で、勉強が面白くない、というのは親としては許せない。この「オファー」は、息子に来た最後の、夏休みの宿題だ。どんな受験勉強よりもいい“問題”だと思う。少しくらい悩んでみてもいいのかもしれない。
この記事へのトラックバックURL:
http://www.ashida.info/blog/mt-tb.cgi/328