長谷川敬子は許せない。 2002年08月16日
それにしても、長谷川敬子(長野県知事選候補者)は許せない。「議論が大切だ」なんてことがどうして公約になるのだろう。「議会を混乱させたのがいけない」などということがどうして立候補の動機になるのだろう。どちらの認識も錯誤であるのは、自分は何をするのかが全く何も言われていないからだ。「議論が大切だ」と言うのなら、まず真っ先に自分はどうするのかを言わなければならない。「議会を混乱させたのがいけない」というのなら、何(どんな政策)が議会を収拾するのかを言わなければならない。長谷川敬子は単に形式論を振りかざしているにすぎない。これはソフトな反動主義だ。たぶんどの面(つら)も土建屋でしかないような長野県議会の連中にほだされたにすぎないのだろう。民主党も(特に)地方では利権集団の代表にすぎないのだ。
田中前知事の「脱ダム宣言」に対しても、「対案がない」というのなら、ダムを作るべきだというべきであって、「白紙に戻す」というわけのわからないことを言うべきではない。「白紙に戻す」というのは、それ自体「対案がない」ことなのだから、はっきり「ダムを作ります」と言えばいいのだ。そう言えないところが、たちの悪い反動主義なのである。
自分が何を考えているのかをはっきりさせることができない者に、「議論」などできるわけがないではないか。「議論をしよう」というのは、“中立”でも“白紙”でもなくそれ自体議論の回避である。自分の無知を棚上げにしているか、結論を先取りして隠蔽しているかどちらかである(長谷川の場合はむろん無知ではあるが、後者である)。
長野県民のみなさん、間違っても長谷川敬子には票を入れないようにしましょう。私は、バカでも利口でも、ソフトな反動が許せない。バカや利口は、他人の判断にすぎない。自己認識としては、自分が何を考えているのかだけに集中すればいい。それだけが、“民主“的な議論の源泉なのである。
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