『ハイパーテキスト論』(1995) 2002年08月05日
「芦田の毎日」の一読者から、コンピュータ教育の意味についてどう思うか、というメールを頂きました。1995年に書いた『ハイパーテキスト論』(7年も前に書いたものですが、内容はまだいささかも古くなっていません)を、ここに「返信」しておきます。
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●ハイパーテキスト論
1)ワープロとハイパーテキスト
「情報社会」の到来、「コンピュータ」社会、「IT」社会の拡大というのは、単にコンピュータが社会のあちこちで使われるようになったということではない。その意味でならすでにあちこちでコンピュータは使われていたといえる。
大きな変化が起こりつつあるのは、コンピュータがバックヤード的に使われている場面から表舞台に躍り出始めたということだ。しかし、それもまた「コンピュータ」があちこちで目立つようになったということではない。
拡大局面の本質を理解するのに一番身近でわかりやすいのは、ワープロ登場から最近におけるその拡大現象だ。当初、ワープロを〈操作〉する者とそれを〈利用〉する者は分離していた。たとえば“社長さん”が書いたものを裏方の秘書(部下)がワープロで打ち直すというように。
しかし、今では書くことそのもののプロセスにワープロが使われ始めている。“社長さん”も自分でワープロを使う時代なのである。最近のコンピューティングの傾向を特徴づける場合に使われる「エンドユーザーコンピューティング」とは、“上司”自身がコンピュータを使うコンピューティングのことを言っている。「エンド」というのは社長のことなのである。
利用する者自身がコンピュータを使うということは、当たり前のように見えてそうではなかった。ワープロも書く者と操作する者とが別の者である限り、単なる“清書機”にすぎない。つまり、鉛筆が書くための“道具”であるようにしてワープロもまた鉛筆代わりの、きれいな字を書ける“道具”にすぎない。
しかしワープロは、むろん鉛筆代わりの道具なのではない。そもそもコンピュータは道具ではないのだ。大工さんにとってのこぎりが道具であるようにしては、コンピュータは道具ではない。
ワープロの数々の機能、「COPY」や「移動(切り取り)」、「挿入」や「削除」、「単語登録」や「語句置換」、「語句検索」といった基本的な機能から豊富な表現能力や書式設定の多彩さは、“人間”がものを考える過程そのものに対応している。
出来上がった文章(“紙”に“出力”されたことば)は、いくつかの〈章〉から、章の下位の〈節〉から順序よく論理的に構成されているかに見えるが、それは“頭”の中で考えたこと(浮かんだこと)をCOPY(反復)し、移動し、挿入し、削除したことの結果にすぎない。
われわれ人間は、文章を〈はじめ〉から〈終わり〉へ向かって書くように(“紙”に展開するように)考えるのではなくて、(“頭”の中で)COPY(反復)し、移動し、挿入し、削除しながら書くのである。紙の媒体に移された文章(テキスト)は、その結果にすぎない。
「起承転結」の論理性の方が、「紙」と「鉛筆」いう媒体に制約された非人間的な性格をむしろ有している。人間が論理的であるかのように見えるのはメディアの性格に多大な影響を受けてのことなのである。むしろワープロの諸機能は、機械的(印刷的−表現的)諸機能ではなくて脳内的な人間的諸機能だと言える。言葉(文字)の電子化という出来事は、本質論として言えば、思考の疎外化ではなくて、表記としての言葉が思考そのものと区別できなくなったということである。あるいは、思考過程そのものを表現できる出来事がワープロ(の操作)において生じているということである。
われわれがワープロに向かって行う編集作業は〈表現〉のための諸作業なのではなくて、それ以前に純粋な思考の編集作業(論理構築)なのである。
〈書く〉という行為がワープロ登場以前に《紙》の媒体に書くことでしかなかったときには、〈ノート〉や〈文献カード〉が思考過程の方を受け持ち、〈原稿用紙〉が(思考の)論理的・構築的な表現過程を受け持っていた。KJ法はこの両者を紙の媒体で(ありながら)統一的に行おうとしたところに意義があったが、ワープロでは特にKJ法をことさらに意識しなくても、書くことはKJ法で書くことなのである。
書く以前の過程(思考過程)と書く過程(表現過程)とが一体となるということは、一方で、一部の電子メールや電子フォーラムにおいてみられるように整理・推敲されていないモノローグのような“文章”が増えることを意味するのかもしれない。しかし一方でどんな文章も完成度としての終点を持たず、構成の美しさや読みやすさに向かって無限の推敲・編集を脅迫的に要求されていると言える。
“これでいい”と思えていた(諦めていた)のは原稿用紙(の限られたスペース)に書いていたときであって、われわれはそのときよりははるかに自分の書く文章に謙虚になっていると言える。どんな文章も、批判にさらされている ― 脳の内(思考としての)からも外(表現としての)からも、自己批評としても他者の批判としても ― のであって、考えたり、書いたりすることは神秘的な出来事ではなくなりつつあるのである。
利用する人そのものがワープロを操作し始めたのは、このことが“社長さん” ― 会社の〈頭脳〉 ― にもわかり始めたということである。エンドユーザーコンピューティングの〈エンド〉とは〈末端〉ではなく、頭脳としての〈トップ〉を意味している。単に「末端」までの利用者拡大をそれは意味するのではなく、人間の、最も人間的な活動の中心にコンピュータが使われ始めたこと意味しているのである。
つまり、ワープロは道具ではない。今日、ワープロを教えるということは、思考することを教えることと同じことである。コンピュータ教育(者)を自認する者が“コンピュータは「手段」・「道具」であって、それ自体が目的なのではない”と言ったり、“単なる「操作」を教えて「オペレーター」を作ることがコンピュータ教育の意味なのではない”などといかにも“人間”教育に肩入れした(ふうな)発言を繰り返しているが、それは間違っている。
〈操作〉をするということは、今日のコンピュータ教育において、人間的な諸機能を遂行するということと同じことなのであって、「操作」することが「オブジェクト」(目的・対象・モノ)を扱うことと同じ水準にあること ― つまりコピーしたり、削除したリの「操作」を遂行することが思考することのシミュレーションをしていることと同じことであること ― が、今日のコンピュータ教育の特質なのである。
従来、なぜ学生たちが〈文章〉を書きたがらなかったのかというと、頭の中に考えが浮かぶことの秩序(思考の時−空)と書くことの秩序(書くことの時−空)が異なり、書く前に考えを整理し、書く秩序に適応させることを頭の中で前もってまとめなければならなかったからである。
頭の中に浮かぶことは秩序というよりはむしろ無秩序であり、浮かんだり消えたり、因果関係があったりなかったり、後先が逆であったり、長短がいびつであったりするが、原稿用紙に書くときは整然と論理的に整理された形を(前もって)強要され、思いつきは許されず、取り消しや訂正にも限度があるというように思考と書記との間には落差がある。この落差の緊張感に耐えることは修練がいるし、場合によっては〈文才〉というものに神秘的な仕方で依存することもあった。
しかし、コンピュータ(ワープロ)の諸機能は、前もって考えることとそれを書くこととの根本的な断絶をほどいたのである。思ったこと、浮かんだことをとにかくそのまま書け(打て)ばいい。論理性や展開は、あとでゆっくりと ― 「コピー」したり、「移動」したり、「削除」したり、「挿入」したりしながら ― 考えればいい。ここでは考えることと書くことが最初から同じメディア(ワープロ)の中で生じている。“脳”の中に浮かぶことがメディアの中で展開し、「コピー」「移動」「削除」「挿入」をすることはそのまま〈考えること〉=〈書くこと〉につながっている。
つまりむしろ徹底的に「操作」指導に集中すること、操作の全体に習熟させること、それが、すぐれた文章を書けることと直結しているのであって、コンピュータ〈操作〉を離れて、〈書く〉ことを教えること自体意味のないことである。〈文章指導〉という授業と〈コンピュータ実習〉という授業を分離すべきではないのである。
ところで、〈教える〉こと、〈学ぶ〉ことそれ自体はコンピュータ教育の今日においてどうなっているのだろうか。
たとえば、今日のコンピュータには「ヘルプ」機能がついている。コンピュータを使いながら仕事をしているとき、操作で不明な点があり困ったときには、このヘルプファイルを開けば、解説テキストが展開する。最近では「オンライン・ヘルプ」というのも登場してきて、現在の操作と関連のある ― つまり「オンライン」ということ ― 解説を最初から呈示してくれるという親切なヘルプ機能もある。
ヘルプテキストであれ、紙の解説書であれ、現在の自分の不明な部分が、いったいそれらのどこで解説されているのかわからない場合が多い。書物の解説書であれば、薄い解説書の場合には物足りない記述が多すぎるし、詳しい分厚い解説書であれば、該当個所を探すのに時間がかかってしまう。
解説書でもヘルプテキストの場合でも難問箇所を解明する「検索(索引)」語の推定が妥当な場合はいいが、それを間違うと必要な箇所にたどり着くのが難しい。オンラインヘルプの場合には、そういった迂回なしに利用者の疑問に直接答えてくれるのである。
今後ヘルプ機能は単なる解説書のファイル(データベース)化にとどまらず、オンラインヘルプ化していくだろう(ウィンドウズ95からの「解説書」は極端に薄いものになり、ヘルプ機能に大幅に依存した体制になっている)。そうなった場合には、コンピュータ教育はコンピュータ自身が行うのであって、コンピュータがわからないときにはコンピュータに ― “学校”や“先生”にではなくて ― 聞けばいいのである。この意味でもコンピュータは“道具”ではないと言えるかもしれない。
しかし重要なことは、その意味でコンピュータが使いやすくなったということではない。ヘルプファイルは、オンラインヘルプであれ、通常のヘルプであれ、「ハイパーテキスト」化されている。
この「ハイパーテキスト」について手許にある解説書は次のように説明している。
情報を表現するメタファで、テキスト、イメージ、音、アクションが、種々のトピックをそれらの順番に関係なく検索できるように、複雑で非順次的な形にリンクされる。これらのリンクは、ハイパーテキストの目的によってハイパーテキスト文書の作成者とユーザーによって設定される。たとえば、記事の中の鉄という単語へのリンクをたどっていく場合、ユーザーは、元素周期表やヨーロッパにおける鉄器の時代の冶金の移り変わりを示す地図を見ていくことになる。
ハイパーテキストという用語は、1965年のTed Nelsonによる造語で、本、映画、スピーチなどの直線的な形式に対して、非直線的なアイディアを表現する文書をコンピュータで表現しようとしたもの。最近の用語のハイパーメディアはハイパーテキストに似ているが、テキスト以外のアニメーション、録音された音、ビデオなどの要素が強調されている。(マイクロソフト コンピュータ用語辞典 第二版)
重要なことが何も書かれていないので補足しておく ― この辞典は、翻訳の程度も含めて全般的に無能な辞典であることをお断りしておく ― が、今私はこの「マイクロソフト コンピュータ用語辞典 第二版」(アスキー出版局 1995)の記述をそのCD−ROM版からCOPYしており、このCD−ROM版は、それ自体「ハイパーテキスト」になっている。たとえば、上の「ハイパーテキスト」の説明記述でいえば、一行目の「情報」「テキスト」「イメージ」、2行目の「検索」、3行目の「リンク」、5行目の「周期」などの言葉が色別−下線表示されており、それらの言葉の意味がわからなければ、さらにそれらの言葉をクリックすればその説明のテキスト(項目)を表示することができる。
わかった時点で、もとのテキストに瞬時に戻ることもできるし、あるいはその寄り道して参照した言葉の説明自体のテキストの中から再び不明な、あるいは関心を誘う言葉に出会い、さらなる寄り道を重ねることもできる。また「ハイパーテキスト」という項目自体が「ユーザーインターフェイス」という「分野」の中に位置づけられており、この単語の検索結果は単に「ハイパーテキスト」だけでなく「7個のトピックが見つかりました」という表示のもとに「マルチメディア」「カード」「ハイパーメディア」「インテリジェントデータベース」「50音メニュー」というようにそれ自体ハイパー化されて指示される。すべてのテキスト(検索ファイル)が検索する者にとって等距離におかれており、どのテキスト(ファイル)が参照されるかはそのテキストに向かう者によって自由に決められる。
ハイパーテキストは、したがって単なる「インデックス(索引)」の電子化なのではない。「インデックス(索引)」はすでに他人が作った検索体系(検索基準)が与えられているのであって、利用する者はそれにしたがわなくてはならないが、ハイパーテキストによる検索は利用する者自身による検索体系 ― というより検索無体系、あるいは無秩序な検索 ― なのである。
論理的な因果関係や階層構造とは別の仕方で、テキストを組成することがハイパーテキスト構造のもっとも重要な特徴であって、それは〈人間〉が物事を学んでいく時間性や空間性に呼応したテキスト組成である。テッド・ネルソン自身は次のように言っている。
テキストの連続性は、言語の連続性と印刷の連続性を土台に成立する。(…)
しかし、連続性は必要ではない。思考の構造自体、連続ではない。アイデアが絡み合ったシステムだ(私はこれを構成物の絡み合いという意味で〈ストラクタングル〉と呼ぶことにしたい)。それにアイデアを表現するためにひとつながりの列にする作業は、任意性が多く複雑なプロセスである。それはまた破壊的なプロセスでもある。なぜなら、アイデアを順序立てて表現するためには、つながりのあるシステム全体を分解する必要があるのであり、それによって全体の一部を構成しているつながりを破壊することを避けられないからである。
もちろん、私たちはこの種の順序立てて分解する単純化をいつも行っている。しかし〈そうするべき〉なのではなく、単に〈そうしなければならなかった〉だけなのだ。(「リテラリー・マシン」竹内郁雄+斉藤康己訳)
〈人間〉は必ずしも目次の最初から本を読んで行くわけではないし、ある人にとって自明な言葉が別のある人にとって自明であるとはかぎらない。また易しいものから始めることが退屈を誘うこともあるだろうし、難しいことがその難しさ故に人々の関心を誘うこともあるだろう。そしてまた時間的に最初のものが単純なもの(容易なもの)であるとは限らないのである。「入門書」と書いてある本であっても、わからない言葉はいくらでもでてくるだろうからである。逆に「入門書」だからこそわからないことも出てくるだろうし、「入門書」を読んで“入門”をやめてしまうこともあるかもしれない。
つまり、〈わかる〉ことや〈わからない〉ことに“原因(はじまり)” ― テッド・ネルソンのいう「つながり」 ― などないのであって、〈人間〉は、偶然、わかり、偶然、わからないのである。つまり、一つのテキストを理解していく作業は「破壊的なプロセス」をたどらざるを得ない。
実際、人が一冊の〈本〉を読む場合には、途中で投げ捨てたり、先読みしたり、後戻りしたり、辞書(あるいは事典)を開いたり、別の書物に立ち寄り、著者とは別の人に教えを請いながら「つながりのあるシステム全体」 ― この場合には〈書物〉という「連続」的形式 ― を「破壊」しているのである。むろんそのことは、著者自身の〈書く〉過程でもある。かれもまた(ワープロ=思考によって)「コピー」、「移動」、「削除」、「挿入」といった「破壊的な」操作を繰り返しながら一つのテキストを仕上げてきたのである。
つまり一つのテキストに向かって「破壊的」な検索を重ねること、テッド・ネルソンの言う「ストラクタングル」(=ハイパーテキスト)とは〈人間〉の〈経験〉(=生成)のプロセスそのものなのである。ハイパー的な検索の中で語句から語句へと「非連続的」「破壊的に」渡り歩くプロセスは、人間が世界経験するプロセスそのものである 。
2)コンピュータデータベースの近代性
たとえば、CADソフトによっていくら簡単に図面が描けるからといって、図面そのものをCADが描いてくれるわけではないという言い方がある。つまり、線を引くことがいくら単純な操作によってできるようになったとしても、そのことによって何が表現したいのかまでをコンピュータは教えてくれるわけではないという言い方がある。〈操作〉を教えることと操作の〈目的〉を教えることとは別なのであって、コンピュータ教育(コンピュータリテラシ)は目的を教えることに関しては限界があるというものである。
この考え方の前提にあるのは、〈操作〉と〈目的〉とは別のものであって、目的はコンピュータの〈外〉にあるということである。
しかし、われわれ(われわれ現代人)は〈目的〉そのものをいったいどこから持ってくるのだろうか。〈頭〉の中から? 〈才能〉から? しかし、そういった〈頭(脳)〉や〈才能〉という個人性(あるいは主体性)は、どこまで個人的なものなのだろうか。
近代化と個人性というのは〈自由〉の両輪のように、密接な連関をなしているが、両者の関係はそれほど単純なものではない。個人が個人として自立するためには(主体性の成立)、社会的空間なり社会的時間が、知的に均質化していなければならない。
たとえば大工の息子が大工の世界を一歩も出ることがなければ、大工の子であることを主体的に引き受けることはできない。逆に言えば、誰でもが大工になりうることが可能でない限り、一人の個人が大工であることを主体的に選び取ることはあり得ない。大工の世界を一歩出たり、誰でもが大工の世界に入り込み得るためには、〈学校(近代公教育)〉〈図書館〉〈道路〉〈新聞・ラジオ・テレビ〉などの存在可能性が相補的でなければならない。それらは産業社会の諸条件でもあったわけである。
この諸条件は主体性の諸条件であるとともに、われわれ諸個人が諸個人を超えて知的に均質化する諸条件、つまり知的な共同性(近代的な社会)の諸条件でもある。主体性という名の個性が成立するためには、その前に誰でもが同じ条件で存在しうることが前提されていなければならない。
〈私〉が選びうるとすれば〈彼〉も同じように選びうるという条件が、私の(という)個性(近代的な個性)の起源なのである。
言い換えれば、〈今・ここ〉が自然的な諸条件に拘束されている限りは、自然の多様性を人間的に反映した意味での個性 ― “田舎もの”という近代的な差別語は、この自然的な個性に向けられている ― はあったかもしれないが、主体性(近代的な個性)が存在しうる余地はなかったと言える。主体性(=近代的な個性)が存在し得るためには、〈今・ここ〉が近代的な交通体系 ― 〈学校(近代公教育)〉〈図書館〉〈道路〉〈新聞・ラジオ・テレビ〉などの ― によって自然的な制約を脱していなければならない。
つまり自然的な多様性を超えて、知的な同一性が前提されていなければならない。近代的なオリジン(オリジナリティー)としての〈頭(脳)〉や〈才能〉は、18・19世紀的な天才概念 ― ロマン主義的な〈天才〉概念 ― の中にあるのではなくて、交通組成の全面的な開示の中に存在しているのである。つまり、われわれ近代人は〈彼〉もなし得るようにして、〈私〉もなし得ること、私の〈発見〉が彼の〈発見〉でもあるようにして存在しているものなのである。
そしていまではこの交通組成は、〈情報社会〉というように組織されている。特にマルチメディア社会である今日の情報社会の特性は人間の知覚機能がコンピュータにおけるデジタル信号処理に集約されるということである。それはマクルーハン的には、身体的な〈今・ここ〉に制約された知覚機能(身体的な情報発信・受信)が世界大に拡大されるということ、逆に世界が一個の身体になるということである。つまり知覚はネットワークになったということであって、それは神経生理学的には当然のことである ― ニューロン−シナプスネットワーク ― にしても、このネットワークが一身体を超えたという意味で、身体の世界拡張を意味しているということである。
つまりこの時代に於けるコンピューティングとは、一個のコンピュータに一個の〈頭(脳)〉や〈才能〉が向かうということではない。コンピュータも人間の個体もすでにはじめから世界拡張のなかで機能している。つまり、それらは手段−目的関係を脱した新しい関係の中にある。ネットワークは集約性や拡張性のあり方なのであって、「通信の手段」なのではない。
いいかえれば、孤立した個人がその〈頭(脳)〉や〈才能〉によってゼロから作ったもの(“作品”)を一個のコンピュータで作ってから送る ― ここでは「作ってから送る」という過程は二重化しているのであって、まず脳の中で考えたことをコンピュータの機械的な手順に翻案する(送りつける)ということと、それからコンピュータで完成したことをやっとネットワークによって遠方に送りつけるというように ― のではなくて、われわれはネットワークによって(ネットワークに親しみながら)作るのである。
たとえば、私がある建築家(設計事務所)の力をかりて、家を建てるとする。その場合、建てることの専門家である〈彼〉とその素人である〈私〉との間にはどんな違いがあるのだろうか。彼は、私がどんな家を建てたいか、家族構成を含めて私がどんなライフスタイルを有しているのか、また予算はどの程度なのかなどを聞いて、それを図面に反映させることになるだろう。
図面やパースを見せられた私は、それについて一定のイメージを持つだろうが、しかしそれに基づいて建てられる〈現実〉の建物との溝を埋められるだけの経験が私にはない。図面を描きつつ、現実の家を想定できる(あるいはその逆の、現実の家→図面)のは建築家の最も専門的な領分(の一つ)に属している。つまり、建築家は一本一本の線(の交差)が現実のどのような空間を分節するのか、またその逆に現実の空間がどのような抽象性(形式性)を有しているのかを直観的に把握できる専門性を有しているのである。
つまり、建築家は家を建てる〈前に〉家を建てることができる(同じようにインテリアコーディネイターは壁紙を張る〈前に〉壁紙を張ることができる)のであって、私(たち)が建築家に期待することは、構想(図面)の斬新性以上に現実を空想することができる建築家の構想力なのである。この構想力に基づいて、私たちは図面を修正したり、自分の抱いている家のイメージに修正を加えながら、一個の家を建てることになる。
建築家はこういった構想力をどこから手に入れたのだろうか。少数の天才的な建築家を除いては、〈経験〉が最大の教師だったと言える。彼は図面を描いては、実際の家を建て、ある時は失敗し(ある時にはクライアントに内密に!?)、ある時は予想以上に成功しつつ、そういった 現実の経験を重ねながら構想力を育成したのである。
こういった経験性が建築家の仕事に個人的な性格を与えていたと言える。経験とは基本的に個人的なことだからである。
しかし、まず図面がCAD・CAM(computer-aided design/computer-aided manufacturing)になり、CAD・CAMから建物のシミュレーションが容易に行えるようになると、私たちは現実の建物に限りなく近いものを前もって〈見る〉ことができるようになる。
かつては、建築家の(個人的な)頭脳の中に閉じこめられていたものがモニタの中に展開するようになる。なるほどモニタの中の建物は現実の建物ではないだろうし、場合によっては建築家の想像力以下のものであるかもしれない。
しかし重要なことは、たとえモニタの画像が(今は)それ以下のものであったとしても、クライアントにとって図面から展開する建物の“形”が目に見えるようになること、クライアントにとっても目に見えるようになることである。従来、クライアントにとってはこの過程は依頼した建築家への「信頼」、その建築家の「業績」「名声」に依存するものだった ― それは、「信頼」「業績」「名声」で新入社員を採用した人事部長がときとして裏切られるように危険な賭なのである。それらはどれも、今から建てる自分の建物とは直接関係のないものであって、クライアントにとって重要なことは自分が建てるこれから建つ建物を自分の目で見ること、〈前もって〉見ることなのである。建築家のプランを評価するにしても注文を付けるにしても、“この図面”からどんなものが建つのかがわからなければほとんど意味のないものになってしまう。
従って建物のシミュレーションは、たとえそれがどれほど素朴なものであっても、建築の近代化にとっては必然的なものであったと言える。現代のクライアントは天才の(見えない)頭脳よりは、目に見えるモニタを信じるのである。それはある意味で健全なことである。
かつては、まともな図面さえない仕方で大工さんの建てる建物が存在した。すべては(コストまで)大工さんの“腹づもり” ― われわれは“腹づもり”で成り立つ技術者を〈職人〉と呼んだのである ― で建てられていたのである。それが一歩進んで、“図面(手書き図面)”の時代になった。建物を建てる過程が少しは目に見えるように(透明に)なったのである。
しかし図面と現実の建物との間にはなおズレがあるし、また手書きの図面では一度書き上げたものを細部にわたって書き直すには、しかも再三にわたって書き直すには建築家(設計事務所)の良心や倫理に頼る ― クライアントの立場からは手直しに対して“気兼ね”する ― 局面がなお大きかったと言える。それはワープロで入力した文章を推敲・編集・校正するのと原稿用紙に手書き文字で書いた文章を手直しする場合の落差と同じ苦労を強いることになるからである。図面がCADになり、コンピュータシミュレーションによって、建物それ自身が建築家の“腹づもり”から〈外〉に出て、建物を消費する者自体に解放されるようになることは、それゆえ建築の民主化とも言える歴史的事態なのである。
もちろん、このように事態が運ぶことには、二重三重に同時進行している事態を指摘する必要がある。一つには、建物に人々(消費者)が関心を持つようになっていること、つまりただ単に夜露を凌げればいいという以上に住まうということが一つの自己表現になるほどに建物への関心が高まっていること ― たくさんの建築系・インテリア系の専門誌・大衆誌が出回っていることからもそれは明らかであり、今日では下手な町の設計事務所より優れたヒントを提案出来る“素人”はいくらでもいる。
おそらく、この“素人”たちはコンピュータデータベースによって、町の設計事務所より優れた図面を描き始めるだろう。つまり現代人は先祖の建てた家に住み続けるとか、自分の家を一回しか建てない(買わない)というよりは〈建物〉を消費(=批評)し始めたのである。二つ目には、建物を建てるプロセス自体が透明になり、今では日本語を知らない外国人労働者であっても建物を(質料的に)建てられるほどに建物が前もって建てられているということ。つまり近代建築の特徴(の一つ)は、〈建てること〉が人間も含めた質料(素材)に依存することなく、汎計算的に建つようになっているということである。
建築が表象(Repräsentation)主義化している。そのことが、コンピュータシミュレーションを現実化し、建築の消費解放を可能にしている。つまり現実の建物は、既にそれ自体シミュレーションである。計算通りに建つのが建物であるとすれば、建物(近代建築)とはそれ自体コンピュータ計算であって、それは誰にとっても近づきうるものなのである。
建築(建築家)にとってもコンピュータは、従って「道具」でもなければ「手段」でもない。コンピュータの中で建てることが最も現実的な建築であるようにして、コンピュータは〈建てること〉そのものになっていると言える。
この場合、建築家のクリエイティビティー(オリジナリティー)とは何なのか。それはおそらく消費欲望の無限性を解放することにあるのだろう。あるクライアントが、“こんな家が欲しい”といったときに“その”家を無制約的に実現できるような技術を提供できること、それがクリエイティビティーである。
つまり出来うるかぎり、自らの考えることを図面(2次元CAD)に、あるいは造形(3次元CAD)に展開し、既存の他の建物や世界史上の建物の全批判にその構想をさらしながら ― データベースを駆使しながら ― 、クライアント(消費者)の要望に応じること、それが現代における建築のクリエイティビティー ― つまり19世紀的なロマン主義的クリエイティビティー以後の ― である。いいかえれば、個体としての自らの脳髄(で考えたこと)をいかに残滓なく表現する(ex-pression: 外に−出す)か、つまり個体の思考(“腹づもり”)をいかにして世界史的な交通の中に晒すかが現代におけるクリエイティビティーの課題なのである。
重要なことは、“こんな家が欲しい“と思うこと、建築家がそれを専門的に反映することは、既にそれ自体個体的−個人的なことではないということである。建築家はもはや必ずしも大工の息子ではないのであって、彼は近代教育の中で建築家になった、つまり誰でもがなり得るようにして主体的に建築家になったということである。“誰でもがなり得るようにして”近代における〈専門家〉が存在している。つまり彼らは、〈学校〉〈図書館〉〈道路〉〈新聞・ラジオ・テレビ〉などによって専門家になったのであって、〈啓示〉や〈召命〉や〈才能〉によって専門家になったわけではない。つまり彼らは、データ(=反復)によって〈専門家〉になったのである。
ある有名な建築家が〈存在した(ドイツ語で言うGEWESEN)〉。すばらしい建築が〈存在した〉 ― それを〈示す〉のが〈建築学〉である。この場合〈存在した〉というのは単なる過去形ではない。〈存在した〉ということがわれわれに(=現在に)伝わっているからであって、〈存在した〉というのは〈現在完了〉なのである。
必ずしも大工の子供ではないわれわれは、われわれの身の回り(〈今・ここ〉)に存在しているのとは異なる、つまりわれわれの〈経験(知覚−身体経験)〉とは異なる〈過去〉や〈遠方〉の建物や建築家を〈知っている(ドイツ語で言うWISSEN)〉。この〈過去〉や〈遠方〉への時間的・空間的拡大を担っているのが、〈学校〉〈図書館〉〈道路〉〈新聞・ラジオ・テレビ〉であり、それは全体として社会的な教育機能であったと言える。教育とは〈知覚〉を〈現在完了〉にすることなのである。
つまりわれわれは、仮に自らの身体(今・ここ)をわざわざ介在させて遠くに行っても「すでに見た」ものをもう一度見るにすぎない。つまり「見る」ことはわれわれにとっていつでも「現在完了」であって、それはたんなる〈知覚〉(自然)ではないのである。教育は〈経験〉ではない。〈前もって〉見ること、その意味で〈経験〉を拒否することが教育の意味である。
英語を学ぶのなら“アメリカへ行け”、建築を学ぶのなら“イタリアへ行け”というのであれば、英語学(英語教育)も建築学(建築教育)も成り立たない。そもそも、仮にそのように〈外(外国)〉に出たとしても、現代においてそれは既に見たものをもう一度体験することにすぎない。やっと〈外国〉に行こうとするときにすら、地図や海外マニュアル、カメラやビデオをもって〈外〉に出るというのは、見ることをもう一度見ること、つまりそれらは教育行為(既視性の既視的な確認)になっているということである。どんな〈外出〉も“留学”になっているのである。〈情報社会〉とは、したがって教育社会、社会自体が教育機能を持った社会であって、つまり生涯学習社会(「リカレント(re-current)」・「リフレッシュ(re-fresh)」社会)なのである。
ネットワーク社会(情報社会→教育社会→生涯学習社会)に生きるわれわれは、もはや個人として、身体としてゼロから出発しているのではなくて、不断の既視体験に囲まれながら生きている。
現代におけるクリエイティブとは、従ってゼロから作ることの創造性のことではない。つまり一人の天才が〈自然〉に対峙しつつ紡ぎ出す“作品”なのではない。そんな自然などもはやどこにもないし、世界が全体に知的にそこ上げされた現代 ― 砂漠や密林さえも現代では衛星映像の対象となり10センチ四方で切り刻まれているのである ― では創造の起始点をゼロすることなど不可能であって、すべては「すでに見た」ことにすぎない。ここでは〈創造〉とは〈アレンジ〉であって、微細な差異を(「すでに見た」ことに)付加すること、つまりもう一つの差異化以上の意味をもつことはない。というより、この微細さこそが現代の創造性の活路だとも言える。
特にマルチメディアの今日の社会において、〈過去(歴史)〉や〈遠方(世界)〉がネットワーク・データベース化され始めると、一台の機械としてのコンピュータに、一個の頭脳を持った人間が、個人的に、そしてまた限定的な目的を持って対峙するということがなくなり始める 。
われわれ人間とコンピュータとの関係そのものがネットワークになってしまっている。コンピュータの〈前〉で、その〈操作〉がわからなくなったときに、われわれはさらにそのコンピュータ(のオンラインヘルプ=ハイパーテキスト)に向かう。
つまりコンピュータの置いてある私の部屋(私の知識)よりはもっと広い部屋(=ハイパーテキスト・ハイパーメディアとしての世界)にそのコンピュータはおかれているのだから、コンピュータの〈外〉の〈今・ここ〉よりは、コンピュータそのものが集積し展開する空間や時間の方がはるかに魅力的なもの ― 少なくとも現在の〈専門学校〉や〈大学〉が集積する空間や時間よりは ― になりつつある。そのようにしてモニタの中にCADによる〈建物〉が建ち始め、DTPによる〈デザイン〉や〈印刷物〉が出現し始めるのである。
「誰が作ったか」と「名前(人格)」を問われることなく、問う必要もなく、われわれはモニタに展開するものに集中し、介入し、批評する。だめなものはだめ、嫌いなものは嫌い、わからないものはわからないと直接言うことができる。というのもそれは、われわれが直接消費するもの(オブジェクト)それ自体であるからだ。われわれは建物やデザインを買う(消費する)のであって、建築家やデザイナーを買うのではない。これから建てるもの・描くものが既に存在することによって、建物や・デザインは教育的に、つまり既視性の共同体験 ― 専門性・専門家の崩壊とともに ― の中で存在するようになるのである。
3)専門性の崩壊と高等教育の可能性
この環境を、それはどこまでいっても疑似現実にすぎないというわけにはいかない。もしこれを疑似現実だというのであれば、どこに“本当の(生の)”現実があるというのだろうか。たとえば、CD(コンパクトディスク)の音は計算機の音だから本当の音ではない、たとえば、アメリカの最近のSFアクション映画のデジタル画像による特撮は“作り物”であって本物ではないなどというのだろうか。
しかしもはやわれわれの生来の知覚が追いつかないくらいにこれらのデジタルメディアはわれわれの知覚そのものになっている。もちろん、この現象は、単にメディアの問題にとどまらない。湾岸戦争では、爆撃の対象は最初から最後まで、爆撃機のモニタに映った映像の対象と“同じもの”であり、この対象(オブジェクト)−映像(メディア)はファミコンにおける戦争ゲーム(の対象−映像)と区別が付かない。〈現実〉と〈ゲーム〉とが自由に飛び火するのである。つまり、特別に軍事訓練をするまでもなく、ファミコンを操る子供は充分に軍人〈である〉。もっとも生々しいと思われる戦争そのものがすでにそれ自体メディアとしてしか成立しないところまで来ている。ヒトゲノム計画によって、人間の死そのものが記号(メディア)として取り扱われるようになるとすれば、われわれ人間は〈現実〉との最後の接点を失うことになるだろう。要するにわれわれは、(たとえば)目そのものがメディア変換の記号として、目と別のもの ― たとえば、CCD(Charge-Coupled Device)が技術進化したようなもの ― に取り代わる時代に突入しうるところまで来ているということである。
つまり、コンピュータの中で家を建てることができれば、“現実の”家も建つということである。
それは〈世界〉がコンピュータの中に存在し、われわれが存在する〈今・ここ〉が世界開放的、また世界集約的に存在するようになりつつあるということである ― ファミコンの子供が家庭の居間で垣間見、かつ介入する画像と西アジア上空で戦闘機から見、介入する画像とを同じ距離や同じ時間で〈今・ここ〉に展開することのできる技術(超技術)をわれわれは体験しつつある。つまりわれわれはどんな経験(=身体)も介在させることなしに自らの欲望を実現することが可能な時代に突入しつつあるということである。
ここでもまた、コンピュータは〈道具〉なのではない。ハイパーテキストによる世界集約・世界開放とは、コンピュータが使用者のどんな準備(道具のための技術教育)も要求せずに直接の目的−消費欲望に対して開放的に存在するようになることを暗示している。
コンピュータ高度技術に裏づけられた消費欲望の無限開放性が、教育の局面で生涯学習教育を誕生させている。どの年齢でも、どんな目標に対しても、また、どんなタイムスパン(修業スパン・昼夜スパンなどを問わず)においても、どんな場所(地域)においても可能な形態の教育需要が生じることと社会が消費欲望中心に再編されていくこととは同じことを意味している。巨視的に見れば、1970年代前半を境にして、製造業(第2次産業)と第三次産業(サービス・消費型産業)との就業人口が逆転し始める。
今では、第三次産業就業者は労働者の過半数を超え(60%)、製造業生産就業者数(30%)をはるかに追い抜いている。これは、つまり物を〈作る〉ことの過程より、物を〈消費する〉過程の方が生産性が高い歴史段階に入ったということである。個人消費においても、生産消費(衣食住を中心とした必需再生産消費)よりも消費的な消費(生活消費以外の「選択消費」)がすでに上回っている。給料の半分以上は“生きる”ため以外に使われているのである。われわれは、非自然的に生きているのであり、〈消費知〉的に生きている。
したがって今後の職業・技術教育は、たとえば〈建築〉のためには建築の「基礎」を、〈経営〉のためには経営学の「基礎」を、〈市場調査〉のためには統計学の「基礎」を、といった専門主義的な「基礎」教育を迂回する必要はなくなるだろう。その種の“基礎”こそ、エンドユーザーコンピューティングにおいて解体しつつあるものであって、われわれは「基礎」教育を超えて、(気ままな消費欲望に応じて)複数の エンド 目的(あるいは対象・オブジェクトという意味での目的・オブジェクト)を飛び歩くことができるようになっている。
図面を(“鉛筆”で)描くには長い修練を必要とするが、CADによっていきなり図面が書けるとなると図面の目的であるオブジェクト(建物)そのものの構想力(育成)だけが新しい教育の課題となる。職業・技術教育の局面で要求されていた職人的な専門性はコンピュータマニュアル(ハイパーテキスト)を読む力(純粋に知的な能力)に取って代わることは明らかであって、この場合の「基礎」教育とはいわば“読み書きの能力” ― 文字通りの「リテラシ」 ― であり、専門(家)教育に向かう基礎能力ではない。むろん、これは、〈基礎〉教育や〈専門〉教育がもはや存在しないということではない。そういったものを学ぶ順序が変化しつつあるということだ。つまり、はじめに〈基礎〉がある必要はないし、同じように終わりが〈専門〉であるわけではないだろう、ということである。
おそらく「職業教育」「実務教育」というものは、技術教育の縮小に応じて縮小していくにちがいない。「職業」も「実務」も(スペシャリストやエキスパートが存在しないという意味で)もはや存在しないのである。〈消費〉や〈サービス〉(サービス産業)に専門家など存在するわけがないのであって、コンピュータネットワークが生産者と消費者との区別を解体し、またそれのみならず時間(昼夜)や空間(家庭と職場、国内外などの地域一般)を解体する度合いに応じて専門家(専門家教育)も解体せざるを得ない。製造業生産(者)の縮小と同じように専門的な職業・技術教育の需要も縮小していくのである。
専門家教育という意味では、従来大学教育(大学研究者)がそれを担ってきたが、そこでもユーザーコンピューティングの大きな波がすでに事実的に打ち寄せており、研究者のあり方も変化しつつある。
ギリシャ古典文学研究者N(氏)は専門のプラトン研究のためオックスフォード大学に留学したが、(運悪く)当時オックスフォード大学は Oxford University Computing Service Centre for Teaching Initiative(コンピュータによる文化系研究者のための支援システムを研究・開発しているセンター)の活動が盛んで、日本人であるNはプラトン研究指導を受ける以前に、日本の古典である源氏物語のフルテキストデータベース化の課題を与えられてしまった ― オックスフォード大学は早くから全世界の古典データベースの構築に関心を寄せていたのである。
専門でもないNは最初日本の源氏物語研究者に、この話を持ちかけたがワープロさえ使用するのを拒むこの領域の研究者が源氏物語のフルテキストデータベース作成に協力するわけがなく、独力でデータベース化に取り組まざるを得なかった。そもそもN自身がコンピュータに特に詳しいわけではなかったし、それ以上に源氏物語にも特に造詣があったわけではないがデータベース作成の過程で“自然に”それらを学ぶことになったのである。帰国後、「情報知識学会(Japan Society of Information and Knowledge)」創設の有力なメンバーとなり ― 源氏物語論の数々を発表しながら ― 、J国際大学の情報処理系の講座で助教授の職を得て、現在に至っている。大学の、特に文系の研究者であっても自分が大学院(修士・博士課程)で学んできたこととは何の関係もない業績で〈助教授〉に飛び火する時代なのである。むろんこれは個人の変遷の問題なのではない。
最も専門的と思われる ― 〈大学〉でしか成り立ち得ない学問という意味で ― 哲学・文学・歴史学などの領域で言えば、研究文献のフルテキストデータベース化は急速に進みつつある。最も大学的で、自閉的なこれらの領域の研究者たちの生涯をかける仕事は二つあった(二つしかなかった)。
文献カード作成(テクニカルタームのインデックス化)と海外文献の翻訳である。この領域の研究では「引用文」や「註」のない論文は“論文”としては通用しない 。「引用」するためには本を読まねばならない。「引用文」が多いということはそれだけたくさんの本を読んだということと同じことを意味していたのである。しかし、文献がデータベース化 ― 自由自在な検索システム(ハイパーテキスト)とともに ― され、読むことなしに“必要”な情報が手にはいるようになるとすれば、〈読む〉ことと〈引用する〉こととは同じことではなくなる。引用は読んだことの“証”ではなくなるのである。
たとえば、プラトンが〈善〉について、〈国家〉について何を言った(考えていた)かを知るためには、コンピュータに向かって検索作業を進めるだけでよい(すでにギリシャ古典文献はそのほとんどがCD−ROM化されている)。取り出されたテキストに意味不明のものがあれば、さらにその言葉について検索作業を進めればよい。データベースやネットワークの本来の意味は教育−啓発開放的なものであって、使用者(消費者)が“わかる”ところまでたどることのできるものなのである(そうでなければ、それはデータベースでもなければ、ネットワークでもない)。
場合によっては、プラトンのその言葉についての著名な研究者のテキストをもその検索システムは指示するかもしれない。著作を超えて、著者を超えて、年代を超えて、言葉のコンテキストを(歴史的・横断的に、つまりハイパー的に)たどるこの作業 は、従来であれば一人の研究者が生涯をかけて行う仕事であったが、いつまでもこういった仕事を人間に任せる必要はない。もし自由自在に必要な言葉が検索できるとすれば、逆にすべての論文(研究)から「引用」はなくなるに違いない。
「引用」は誰も〈そこ〉を知らないからこそ価値のあるものだったのであり、その価値ある引用のためには長年の学問的修練が必要だったが、そのような技術的迂回の必要がなくなれば「引用」などしても意味がないからである。それはちょうど、建築科の学生が図面を上手に(手で)描けることがほとんど意味がないのと同じように「引用」という職人的技術も意味がなくなるとういことである。
図書(書物)というものが図書館に閉ざされ、知識(研究)いうものが大学に閉ざされていた現状も変化せざるを得ない。それと同時に大学研究者(専門家)も技術者(知的技術者)にすぎなかったことが露呈するはずである。N氏のプラトンが「情報知識」学に飛び火したり、東海大学の坂田俊文(衛星映像処理)が専門でもない考古学の著作を書いたりし始めているのはその予兆である。
インターネットの日本での推進者である村井純(慶応大学)は、ここ2・3年でインターネットを使った研究者の論文とそうでないものとははっきり差がでてきたと言っている。これらの現象は、最も専門的であり得ると思われた大学研究者の専門性もメディア技術に依存したものであり、メディアの変貌・進展に応じて解体し得ることを示している。つまりこれらの専門性は〈才能〉や〈能力〉の問題ではなくて、(少数の天才的な思索者をのぞいては)単なる技術の問題でしかなかったということである。残念なことだが。
つまり、〈知識〉の問題も、データベースやネットワークの進展によって徐々に消費知的な歴史段階に突入しつつあるということである。
つまり、知りたいということは、どんな留保もなしに知りたいことであって、それ以上でもそれ以下でもないということである。たとえば、従来は「哲学って何ですか」などという素人の不躾な質問に、大学教授は「哲学って言ったって、君、いろいろあるんだよ」と専門的に応えたり、「それは君がそのように問うことのできる可能性そのものだ」などと禅問答のような答え方をするかどちらかである。
ここでは、専門性とは素人(消費者)の問いに答えるためのものではなくて、むしろそれから遠ざけるためのものでしかなかったのである。しかし知りたいことに専門性などはじめからあるわけがない。それは、知りたい者が自らの流儀(自らの知的現状)にあわせて納得すればいいことで、知りたいことに制限などないはずである。技術の問題で言えば、こんな車が欲しいと(車の素人が)思ったときにその車ができないとすれば、それは技術の問題であって、欲しいと思ったその内容にあるわけではない。この場合、技術者(車の専門家)はあれこれと理由を付けながら、その欲望を抑えるに違いない。
しかし技術の進展は、たとえ荒唐無稽に思われてもこんな車が欲しいという最初の(素人の)消費欲望に動機を持つのであって、それ以外にあるわけではない。〈専門家〉こそが、事情(技術的な現状)を(中途半端に)知っているために真っ先に〈問い〉を制限し、答えられる問いにのみ答えようとする内閉的な存在なのである。同じように「哲学とは何か」という知的な問いもまた、そのままその問いを発する者に応えられるべきであって、そのこと自体(問うこと自体−応えられること自体)にいかなる技術も無用である。
一つの問い(の消費)や一つの欲望(の消費)にどんな専門性も必要ないのであって、消費者の時代とは同時に専門家 ― 他人の消費欲望にあれこれと技術的にケチをつける者 ― が解体する時代でもある。つまりわれわれは大学の先生(専門家)なしに直接古典データベースのみならず、世界中のあらゆるテキスト(あるいはコンテキスト)に向かうことができるし、このことに従来の意味でのどんな「基礎教育」も必要がないのである。
ハイパーテキストが「非連続的」に「破壊」するのは、基礎−専門教育の、この連関 ― かつてのCAI(Computer-assisted instruction)による教育「合理化」運動とは全く異なる ― なのである。
ハイパー構造は、与えられたテキストをわかりやすく ― 誰か「先生」と呼ばれる主観的な人がでてきて ― 言い直すためのリンク構造なのではなくて、テキストの言葉そのものの中でテキストを理解しようとする。そしてそれらの言葉が数々の既視性の体験(専門家の生成過程:歴史)を経ていること、テキスト自体が別のテキストのサンプル(コン・テキスト)であったりすることを発見する。
しかもこのコン・テキストの発見は、それにアプローチする人それぞれが、どの言葉をクリックするかによって異なった歴史を持つことになるという点でテキスト(メディア)の消費過程を直接的に解放するのである。つまりわれわれはどんな〈専門書〉も直接的に消費することができるのである。
これは不思議なことではない。〈啓示〉や〈召命〉や〈才能〉によって生まれたときから難しい言葉を使っていた〈専門家〉などいないのだから、われわれがハイパーテキストによってたどる構造は(著者との)既視性の共同体験なのである。すべてのテキストはコンピュータデータベース(ハイパーデータベース)において教育的になりつつある。
もはや、職人育成という意味での技術・職業教育も研究者育成という意味での専門教育も縮小せざるをえないのである。
われわれは、いついかなるときでも(「基礎教育」なしに)従来の意味での専門的な知識や技術の成果を手に入れることができる。そして、この基礎教育−専門教育の前提となっている時間的・場所的制約こそが、コンピュータ技術の進展によって、解消されつつある。
従って、高等教育(専門教育)に課せられているのは、もはや従来の専門教育ではなくて、高等な一般教養としてのコンピュータリテラシ(情報リテラシ・メディアリテラシ)であると言える。〈基礎〉教育を、学ぶことの〈始まり〉と考えたり、〈専門〉教育を、学ぶことの〈終わり〉と考える、通常の教育課程とは別の枠組みの中で〈学ぶ〉ことの意味をもう一度考え直す必要がある。それらは、いつも後から考えられた教育課程にすぎない。入門書を書くのがいつも名誉教授(終わりの教授、あるいは教授の終わり)であったりするのは、入門(始まり)が後からの始まりであることを意味している。
後から振り返れば、どんなに曲がりくねった道であろうと試行錯誤を繰り返した過程であろうと、一本の線でつながっている。だから名誉教授は折り目正しい(一本道の)入門書を書くのである。しかし、人が実際に始まったりするのはほとんど不純な動機からである。はじまりは、実はいつも中途半端な寄り道(=ハイパーリンク)からはじまっている。「入門書」や「伝記」は、そういった不純さをいつも排除しているため、“入門”にはならないことが多い。「伝記」もまた同類の人間しか読まない。したがって、それは〈教育〉ではないのである。
始まりの多様性や偶然性に配慮しない教育など存在し得ない。ハイパーテキストが新しいのは、そういった始まりの多様性や偶然性に、教育的な基礎を与えたからである。
いつからでも、いかなる専門家にもなることができ、また専門を究めた者であっても、別の専門性へと向かうことのできる柔軟性を有した人材(ジェネラルな専門性・専門家)の育成が、新しい教育の課題であり、またそれは現に人々がそうしている学びの実相でもある。教育する側が、自らの“階級”主義に従って、そういった実相を見失ってきただけのことだ。ハイパーテキスト−インターネット世界は、その錯誤をあざやかに指摘しているのである。(了)
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