オリバーカーンと「ジャコビニ彗星の日」 2002年07月03日
オリバーカーン(http://isweb36.infoseek.co.jp/sports/kozun/kahn.html)の淋しく、ゴールマウスの中でたたずむ姿を見て、思わず、ユーミンの「ノーサイド」(http://www.tsutaya.co.jp/item/music/view_m.zhtml?PDID=20005779)の冒頭の一節を思い出した。たぶん私の年代では多くの人が思い出したに違いない。
「彼は目を閉じて 枯れた芝生の匂い 深く吸った」という有名な一節だ。
久しぶりに「ノーサイド」を何回も聞いてみたが、ついでに、(30年ぶりの久しぶりに)聞いたのが「ジャコビニ彗星の日」(http://www.tsutaya.co.jp/item/music/view_m.zhtml?PDID=20005774)。これはやはりいい。こんな女の子に愛されたら、もうおしまいだな、とも思うが、こんな詩を書けるのはユーミン以外いない。やっぱりユーミンは松任谷正隆がダメにしたのかもしれない。以下は、一字一句違わない、その詩の全文。
夜のFMからニュースを流しながら
部屋の灯り消して窓辺に椅子を運ぶ
小さなオペラグラスじっとのぞいたけど
月をすべる雲と柿の木ゆれてただけ
72年 10月9日
あなたの電話が少ないことに慣れてく
私はひとりぼんやり待った
遠くよこぎる流星群
それはただどうでもいいことだったのに
空に近い場所へでかけてゆきたかった
いつか手をひかれて川原で見た花火
夢はつかの間だと自分に言いきかせて
シベリアからも見えなかったよと
よく朝弟が新聞ひろげつぶやく
淋しくなればまた来るかしら
光る尾をひく流星群
(ユーミン「ジャコビニ彗星の日」より)
6行目「あなたの電話が少ないことに慣れてく」。ここは今でも驚く。電話が少ないことに「慣れてく」。この言葉は創作の段階ではなかなか出てこない。少なく「なっていく」、ではない。少なくなっているのに「気づく」わけでもない。少なくなって「悲しい」わけでもない。まして電話を「待っている」わけでもない。「弟」のつぶやきに耳を傾けられる程度に私の日常は冷静だ。でも何十年、何百年に一回の出来事(=ジャコビニ彗星の日)が、私の「慣れていく」日常を揺さぶる。
そういった微妙な心理描写が、自宅の庭から一気にシベリアにまで飛ぶ広がりの中で、もっと(客観的に)絶望感を強調する(結局「72年 10月9日」のジャコビニ彗星は現れなかった)。「どうでもいいことだった」だけに、それはもっと絶望的な出来事だった。「どうでもいいこと」にさえ見捨てられる「私」。「淋しくなればまた来るかしら」。「慣れてく」私と「ぼんやり待」つ私。この詩は、好きな人がもういないことに「慣れ」るということがどんなことなのかをぞっとするような仕方で教えてくれる。2002年6月30日。そう言えば、オリバーカーンにとっての優勝も、この「ジャコビニ彗星の日」の出来事だったのかもしれない。これは誰が何と言おうとユーミンの代表作だ。
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