それでもなぜマンションなのか? 2002年03月23日
東京で、マンション並みの〈快適〉な生活をしようと思えば、地価の下がった今でも最低2億円はいるでしょう。そんなお金、私にはありません。もっともマンション選択は、そのような経済的な問題だけではありません。
マンションライフのもっとも快適な要素は、〈生活〉を隠せるということです。戸建ての一軒家であれば、外から見れば(外から見ても)、その家族の暮らし向きが見えてしまいますが、マンションならば、それが見えません。それについては、すでに「芦田の毎日」532番「クルマ購入法10箇条(http://www.ashida.info/trees/trees.cgi?log=&v=532&e=msg&lp=532&st=)の第6条で次のように書きました。
第6条:次は、価格。これは難しい。たとえば、オーディオとクルマという趣味の一番違うところは、オーディオは家庭内に隠せるが(人目に付かないが)、クルマは隠れて走ることができないということ。クリーニング屋もその家庭から預かる衣類によって、その家庭の暮らし向きの“グレード”を極め尽くしているが、クルマもその家庭の“グレード”を“表現”することになってしまう。個人的な趣味にとどまらないところが、要注意。好きな車だからといって、せっせとお金を貯めて1000万円以上のクルマを買ってしまったりしたら、その後が大変。それより安いクルマ(ほとんどがそれより安いクルマだと思うが)が好きになったときに、素直に乗り換えても、“世間”は、許してくれない。“勢いがなくなった(暮らしが傾いた)”ということになる。
特に、戸建てに住んでいる人は注意。30坪くらいの家で、フェラーリが小さな自宅駐車場にあったりすると(開口間口の半分以上が駐車場という悲しい戸建て住宅)、他にやることあるんじゃないの? と知らない人にまで思われてしまう。
クルマが趣味の人は、マンション住まいの方が無難。マンションの方が“暮らし向き”が間接的にしか出ない分、クルマ選びの自由度が高まるからだ。戸建ては、それに比べて、暮らし向きが直接的に露呈してしまう。
30坪くらいなら、洗濯物まで露呈してしまう。クリーニング屋の分析を待つまでもなく、〈生活〉が露呈する。これはきつい。逆に言うと、マンションで、テラスの天井に物干し竿を設置するステイが付いていたり(本来は手すりの下方で、洗濯物が外部下方から見えない位置に設置すべきだ)、布団をテラスの手すりに掛けているようなマンションは、非生活的な生活を志向するマンション族の精神に反したマンションなのである(最近のマンションの乾し竿のステイは、普及型のマンションでさえ、天井には付かなくなっている)。だからマンション暮らしでもテラスに布団や洗濯物が干してあるマンションでは、400万円以上のクルマは買うのに勇気がいるかもしれない。
もともと都市生活では、その人の“家”が見えないことと〈自由〉とは同じことを意味していた。都市化とは生活(=家)を隠すことだったのである。そして、クルマとは、その家から自由に遠ざかることだった。都市化とモータリゼーションは軌を一にしている。そして、その家とクルマが交差する〈駐車場〉は、もっとも矛盾した場所なのである。最高に自由なオープンカーを買ったのに、月極野ざらし駐車場しかない。これは喜劇ではなくて悲劇だ。家に合わせたらクルマを買う意味がない。クルマに合わせたら、それを保管する場所がない。
いろいろと考え始めると好きとか嫌いということだけで選べないことが出てくるのが、クルマ選びの難しいところ。トヨタ的に整序された階層・階級的なランキングに従うのも面白くないが、社長よりいいクルマ(高いクルマ)に乗るのも気が引ける。それに、そもそもそういった右肩上がりの階級的なクルマ購入(トヨタ的な階級主義)も幻想に近いものになってきた。自由にクルマを選ぶとすれば、自らが、そういった〈社会〉や〈生活〉から自由でなくてはならない。でも、そんなこともともと不可能なことだ。さて、どうする?(「芦田の毎日」532番:「クルマ購入法10箇条」より)
マンションライフの快適さは、都市化が反生活化(=自由)であることと同じ動きの中での出来事です。確かにそういった自由は、幻想にすぎないのですが、貧乏人は貧乏人〈である〉ことを、金持ちは金持ち〈である〉ことを相対的に気にしないで済ませることができる。これは、〈生活〉を嫌う都市生活者にとって、快適であることに違いはありません。
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