寺島実郎講演会(NPO論)を開催しました 2002年01月24日
本日、テラホールに、三井物産戦略研究所所長の寺島実郎氏を招いて、持論のNPO論を展開していただきました。久方ぶりの知的なナマ話に刺激を受けました。従来の彼の著作からの話と今日の話を織り交ぜて紹介します。
寺島実郎 http://www.bk1.co.jp/cgi-bin/srch/srch_result_book.cgi/3aefc10412c880103cc4?aid=&kywd=%BB%FB%C5%E7%BC%C2%CF%BA&ti=&ol=&au=&pb=&pby=&pbrg=2&isbn=&age=&idx=2&gu=&st=&srch=11&s1=za&dp=&kywdflag=0 のNPO論は、従来からそうですが、三つの視点がある。
一つは、〈公(パブリック)〉という概念は〈官〉でも〈民〉でもない。日本社会では、民間の紛争を何でも〈官〉に訴えて解決するという“オカミ”崇拝の傾向がある。また一方では、“民間にできることは民間に”という小泉的な市場開放論がある。しかし、〈公(パブリック)〉は、市場主義的な〈民間〉に対立する〈官〉を直ちに意味しないし、また民間中の民間であるボランティア運動的な〈公(パブリック)〉でもない。このことの意味は残りの二つの契機を重ねればわかる。
その二つ目。3人に1人が60才を超える高齢化社会を前に、税金を徴収してそれを再配分するという古典的な図式では、消費税の税率の議論を超えて膨大な税負担を勤労者(高齢社会ではどんどん減っていく勤労者)に強いることになり、社会的な窒息死は必然となる。介護を税金(端的な他者)でまかなうことなどできないわけだ。新しい〈地域〉概念や〈パブリック〉という契機(アメリカのようにNPOへの寄付行為が減税処置される契機)がそれを救うことになる。
その三つ目。IT化社会は労働を単純化する。ワークシェアリングもIT化によって“中間管理職”がいなくなり、労働が平板化しているからこそ可能な政策であって、フリータの増加もそのことと無関係ではない。〈労働〉に“生き甲斐”や“キャリア”という概念が入り込めなくなっている。若いフリータたちは、その分、“自由に”生き始めたのである。従来の縦社会の階段を昇っても最後は階段を外されるお父さんの末路を見ているからである。しかし彼らは、従来の概念で言えば、低賃金労働者にすぎない。リストラされたお父さんは、だからそれでも反論する。若いうちはいいが、歳をとったら、どうするんだい? と。ここで、寺島は、パブリックという概念を持ち出す。低賃金であっても、パブリックな仕事に生き甲斐を見出す〈労働者〉がいてもいいではないか、と。単に〈ボランティア〉でもない。かといって〈官〉でもない“公共的なフリータ”。これがNPO組織である。なんとアメリカでは1000万人の雇用をこのNPOが吸収しているという。歳を取ったフリータは、“公共”化する。あるいは低賃金労働者は、公共労働(NPO)の中で、“生き甲斐”を見出す。フリータの“自分探し”は、〈公共性〉にその終点を見出すのである。
これが、寺島のNPO論である(かなり私の勝手な解釈が入っているが)。下手なフリータ論よりもずっとおもしろいのが、寺島NPO論である ― 最近読んだ玄田有史(学習院大学経済学部教授)の『仕事の中の曖昧な不安 ― 揺れる若年の現在』(中央公論社)は、若いフリータを〈自営〉志向で総括しているが、これは寺島よりはるかに通俗的でくだらない議論だ。
私には、寺島のNPO公共論は、共産党や公明党の“低賃金労働者”が、「それでも私は、〈社会〉のために頑張っている」と歯をくいしばって機関誌を朝早くから配ったり、選挙運動をヘルプしているのとほとんどかわらないことのように思えるし、また、新保守主義や新歴史主義(たとえば、西部邁のような左翼転向者のそれ)における“パブリック”とほとんど変わらないもののようにも思える。
ただ、そういった〈思想〉なしでも、つまり若い(“落ちこぼれ”の)フリータにこそ公共性が成立するということを指摘している点で、新しい事態を指摘しているとも言える。
テラホールは、“ハイタッチ”な満杯の人で埋まっていた。久しぶりに刺激に満ちた講演会だった。
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