作ることと評価すること ― デジタル時代のスピードとは何か 2001年09月10日
テラハウスカリキュラムは、とりあえず完成して(http://www.terahouse-ica.ac.jp/koza13/kz13index.htm)、今はパンフレット作成のど真ん中。土日をつぶしてしまった。
土曜の夜中の「1:40」に私の自宅に表紙デザインを送ってくるなんて、なかなか“国際的な”仕事の仕方だ。今回の業者は、制作部署が石川県にあるAVDという会社。「今回の」と書いたが、私は、業者の決定については、毎回入札をやって、無条件に安いほうにする。金額がすべてだ。当たり前のことだが、これがなかなかつらい。一度業者と仕事をすると慣れや任せることのできる安心感が生まれてきて、“離れがたい”気持ちが前面化する。そうなるとコストは絶対にさがらない。こちらが手を抜いた分コストはさがらないのは当然のこと。今回の業者は、前回より100万円以上安い見積もりを入れてきた。30%以上コストダウンだ。その分、①B5版からA4版への拡大(文字が一回り大きくなり読みやすくなった) ②カラーページ(講座受講のチャート図ページ)の2倍増強 ③講師紹介、用語説明ページの新設などかつてないパンフレットを計画できた。A4版110ページを超える大作パンフである(自画自賛?!)。テラハウスパンフにとっては画期的なものだ。
私はコストダウンを基本的には〈拡大〉のためにしかしない。パンフレットなんて何度作っても不満ばかりが残る。テラハウスを十全に伝えることができているか、いかにして、それを見た人が電話をかけて問い合わせなくても、“わかる”パンフにするか、すぐにでも“学びたい”と思ってもらえるパンフにするか、そう考えると予算的にもいつも限界がある。その限界を超えることが、制作費を少しでも安くすることの意味である。よいパンフレットになって、読者の心をつかむことことこそが、“利益”の本当の源泉だからだ。コストダウンそのものに、目的などあるはずがない(日産のカルロスゴーンは、まだなおヒット作の車、魅力的な車を出していない。上半期ヒット車上位10車のうち日産の車は一台しかない。ヒット作のないコストダウンと経常利益なんて、何の意味もない)。
今回の業者の経験は、貴重なものだった。石川県にあったため、ページデザインがすべてJPG、PDFファイルで私のOFFICEの、あるいは自宅のパソコンに直送されてきた。 間髪おかずに、私がそのデザインを批評する。数時間後にそれに応えたデザインがまた送られてくる。これを5、6日間で数十回と繰り返して、デザインが完成に近づいていく。「申し訳ありませんが、1時間ほど会社を留守にいたします。ご都合のよろしいとき、いつでもご連絡してください」なんてメールのやりとりを繰り返し(たぶん、この「一時間」は食事のための「一時間」である)、ほとんどデスクにはりつきながら、秒刻みの制作と評価のやりとりを続けたのである。毎回、テラハウスのパンフレットに関わった印刷所は、赤字を出したり、尿から血が出たり、退職者が出たりして、テラハウス悲劇が生じるが、今回の印刷所はどうなるのだろうか。私にとっては、この経験は貴重で斬新なものだった。
今回の場合は、表紙デザインが一番手こずった。最初のうちは60点すれすれのデザインだったが、最終的には80点以上になったのではないか(このパンフレットは、22日にできあがります。今しばらくお待ち下さい)。
従来であれば、営業が介在して、制作部のプリントアウトしたものを一日遅れくらいでクライアントの手元にもってきて、その批評を(営業が)聞き、その意見をまた持ち帰り、再度作り直すということを繰り返す。場合によっては、制作部とは別にデザイナーが介在する場合はもっと複雑なことになる。〈デザイナー〉という人種は、なかなか人のいうことを聞かない。これまでの私の経験でも、人(私)がデザイン批評をし始めると、デザイナーの顔色が見る見るうちに変わっていくということが何度もあった。今度はこちらが、デザイナーの機嫌を損なわないように話さなくてはならない。クライアントであるのに気を遣わなくてはならない、そんなことも数多くあった。こういった関係では、デザイン検討を納得がいくまで繰り返すというのは不可能だ。そもそも時間がない。
制作(オペレーティング)、デザイナー、営業。こういった分業体制は、そもそも、アナログ時代の体制だ。基本的に、頭(デザイナー)と手足(制作)が分離している。アナログの制約の本質は、INPUTとOUTPUTとのあいだに時間が介在するということだ。時間が、考えることと作ることとを引き裂く。
たとえば、デザインの介在しない文章の世界(情報量がそれほど多くない文字データの世界)では、もはやデジタル化は充分に成熟しており、〈頭〉と〈手足〉が分離していることはない。人々はノートにアイデアをまとめてからワープロに向かうということをもはやしない。考えながら書き、書きながら考えるということを自然に行えるところまで来ている。もはやワープロは書く道具ではなく、考える道具である。書くことと考えることが分離していたのは、そこに紙が介在していたからであるが、完全デジタル化が達成されると(書斎やOFFICEからノートがなくなると)、考えることと書くことはほとんど同じことになる ― この事態を私は今から六年前に「ハイパーテキスト論」(http://www.terahouse-ica.ac.jp/staff/ashida04.htm)で展開したが、そのモチーフは、当時の(今でも勢力のある)、「パソコンがいくら進んでも、結局それを使うのは人間だ」という不毛な議論にピリオドを打ちたかったからである。デジタル化の本質は、表現(OUTPUT)と思考(INPUT)との間に時間差が生じないということだ。
今回のパンフ作りでも、私はjpgファイル、pdfファイルによって直接制作担当とやりとりをすることができた。制作担当とどういった会話が下されようと、あるいは“彼”のデザインの、あるいはオペレーターとしての才能がどんなものであれ、ほとんど時間差がなくOUTPUT(=作品)が生じるので、自分が考えたかのように制作過程を疑似化できる。制作過程と評価の過程とが重なっているのである。
デザインの世界では、デジタル化(DTP化)によってオペレータがデザインをも兼ねるようになり、デザインの質が低くなった、その分、ますます芸大系のデザイナー(アナログデザイナー)の需要が高まりつつあるという意見も強いが、それは全くの嘘だ。もしそういったことがあるとすれば、それはデジタル化がクライアントに直接に結びついていないことから起こる現象であって、まだデジタル化が不全のために起こっている現象にすぎない。つまり、デジタル化の極点は、単に制作過程の全過程がデジタル化されることではなくて、クライアントに(〈デザイナー〉や〈営業〉の手や頭を介さずに)直接、瞬時に作品提示を行えることにある。クライアント(評価の過程や消費の過程)に結びつかないデジタル化は、ほとんど意味がない。オペレータVSデザイナーという対立が解消されるのは、デジタル化がクライアントに結びついた時にこそ可能になるのである。ノートがデジタル化されていない限り、書くことと考えることとの間にはなお溝があったが、ノートがパソコンのそばから消えたときに、書くことと考えることとの差異が解消したように、ノートのデジタル化とクライアントのデジタル化とは同じ軌道を描いている。
制作過程を熟知できないデザイナーは生き残れない、デザインの過程を熟知できないオペレータは生き残れない。最近ではよく指摘される、この事態の鍵は、したがってスピード(時間)である。スピードの短縮化、加速化が、評価のない制作過程(〈頭〉のない〈手足〉)を駆逐しつつあるのである。逆に言えば、スピード(デジタル化)の本質は、評価の有無である。評価に直結しないインターネット・ネットワーク、社内LAN、グループウエアは、単なるお金の無駄使いにすぎない。
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