セーフティネット論の虚妄 2001年07月24日
セーフティネット論(小泉内閣の「構造改革」によって、発生する大量の失業者(の「痛み」)を諸々の“手当”(=セーフティネット)によって労働福祉的に救うという政策)は間違っている。野党までもが、「セーフティネット」論を強化しろと訴えているが、こういった失業者は、もともと出るべくして出たバブル労働者なわけだから、この人たちを労働福祉的に救うというのは、倒産すべき銀行やゼネコンに意味のない資本注入をするのと同じくらいに無駄なことである。
むしろ、失業した労働者を救うのは、規制緩和を徹底して民間参入を拡大させ、新しい業態を拡大的に発生させることだ。そもそも「構造改革」というのは、そういったことではなかったのか。失業者の大量発生の真の「セーフティネット」は、労働福祉的な「失業者対策」なのではなくて、規制緩和(小さい政府、地方分権化とそのことによる民間業態のダイナミックな再編・拡大)でしかない。そして規制緩和とは、既得権益に充ち満ちた政府 ― 政府権力とは既得権益の集積態でしょう ― が解体・縮小再編されることなのだから、まず政府自身が「痛み」を感じることでなければならない。政府が「痛み」を感じることなしに失業者が救済されることなどあり得ないことなのである。
現在唱えられている与野党の「セーフティネット」論は、この問題を覆い隠している。本来は、政権党ではない民主党などの野党が矢継ぎ早の既成緩和策を打ち出さなければならないのに、労働組合の既得権益が野党の規制緩和策を麻痺させている(民主党の参議院候補者には組合の代表者がなんと多いことか)。一方で小泉総理の郵政民営化論、道路特定財源の一般財源化論は、単に財務省(大蔵省)の権限を強化するだけのものだ。政府の規模(政府の権益の規模)自体はそれによっては何も変わっていない。
与野党の「セーフティネット」論は、この馴れ合いの「構造」を何も「改革」しようとしない懐柔策なのである。最近は民間の大臣である竹中平蔵までもが「セーフティネット」論に走っている。この“教授”の限界もはっきりしてきたわけだ(というより“教授”とは限界そのものなのかもしれない)。もっとも「構造」(レヴィストロース)とはめったなことでは変わらないもののことを言うのだから、「構造改革」とは、もとから矛盾したスローガンだったのかもしれない。
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