立花隆はくだらない(〈教養〉とは何か?) 2001年05月06日
ゴールデンウイーク。どこにも行くところがないから、本屋に立ち寄ると、横積みで置いてある立花隆の本が目にとまった。
『ぼくが読んだ面白い本・ダメな本そしてボクの大量読書術・驚異の速読術』。
立花隆は、なぜ「勉強家」なのだろう。こんなに勉強して、こんなに本を読んでいったいどうするというのだろう(といっても、立花隆の読んでいる文章量は外務省の役人が一日に読む文献量に比べれば遙かに少ないだろうが)。
本を読んで知的になるというのは、若いギャルたちが、渋谷の遊び方を「知っている」というのとまったく同じことだ。立花隆が、宇宙、サル学、遺伝子、エコロジー(その他諸々)の知見をもっているのと若い女の子が男との遊び方を「知っている」のとは何も変わりはない。
要するに、立花隆が知っていることを若い女の子たちは知らないし、女の子たちが知っていることを立花隆は知らない(なんてことを書くと宮台真司のようなちんぴら社会学者に「いや俺は渋谷の女の子(たち)ともつきあっているぞ」なんて言われそうだが)。
〈知識〉というのは、〈経験〉の近代的なかたちだ。したがって、人の数だけ知識の種類があるし、その中で得られる知識の量も人の数だけ平等に散らばっている。渋谷の女の子と立花隆の知識の量はまったく同じ。
知識それ自体には優劣はない。本を読んだというのは、今日のウンコの色はあまりよくなかったというのと同じくらいに、個人的なことだ。なのに、それを本にして出すのは(たとえ、編集者がすすめたとはいえ)、彼が知識主義だからである。
知識は、いくら積み重ねても、真理(=普遍)には到達し得ない。それは魚屋さんがいくら魚を売っても魚屋さんであることにとどまるという意味でそうである。
立花隆は、魚屋が魚を売るようにして、知識を売っているにすぎない。しかも大しておいしくもない魚を(私は、上記の本の「ウイットゲンシュタイン」に関連するページを開いたが、ずいぶんとひどい記述だった。他の私の知らない分野でも知った人が読めば読むに耐えない本なのだろう)。たぶん立花の読者というのは、地方の高校教員か都市の学歴コンプレックスをもったホワイトカラー層なのだろう。
結局、立花隆は経験的にしか知的でないのだ。それは、たとえば弁護士が「世の中所詮利害関係だよ」なんて、“人生哲学”を語り始めるのとおなじだ。
むろんこれは人生哲学にはならない。たぶんほとんどの弁護士がそう言うだろうという意味でそれは職業的な、つまり経験的に強いられた思想なのである。
同じように、本を「速読術」などといって読んでいる人は、『ぼくが読んだ面白い本 …』なんて本を書き出すのだろう。これも経験的な上昇性(=経験的な成長)にすぎない。
それは、本を読むのが好きな大学の先生も、専任講師の次は、助教授、助教授の次は教授、教授の次は学部長 … というように成長するということと変わらない。
そうやって、大学の先生も学生たちに「ぼくが読んだ面白い本はね … 」とか言って授業をやっているのである(そういえば、立花隆は東大の特別講師かなんかをやっていた。もうすこし年をとれば地方の大学教授に落ち着くかもしれない)。それは朝日新聞の編集委員や岩波書店の編集者が“成長”して地方の大学教授になるのと同じ知識現象だ。
立花隆は、結局のところ〈教養〉がないのだ。〈教養〉というのは知識の問題なのではない。ふっと、自分の経験を離れる力のことを言う。
世の中には、弁護士もいれば、大学教授もいる。知識人もいれば、芸術家もいる。魚屋もいれば、サラリーマンもいる。それらは、それ自体自立的でまったく出くわす場所がない。共通な言語がない。極端な尊敬か、極端な侮蔑だけが、それらの世界どうしの会話を成立させている。
それは、排他的な関係をひたすら強化するだけのことだ。しかしながら世界の真理は、それらの間に共通言語や普遍性を〈場所〉としてもつわけでもない。〈教養〉というのはひとつの領域でもなければ、「勉強」や「読書」の対象なのでもない。あるいは登り詰めれば到達できる頂点(境地)のようなものでもない。
今日、私はファーストキッチンで、フライドチキン、ポテトのS、コーラのM、家内はクリーム白玉ぜんざいを頼んだが(ゴールデンウイークにもかかわらず夫婦そろって貧相なところですごしていたが)、デザートとソフトドリンクは「セットにされた方が100円お安いですよ」と店のアルバイトの女の子に言われたらしい。
「じゃそれにして下さい」と家内。ここまではアルバイトもマニュアル通り(=経験通り)。「どうもありがとう」と家内が言った瞬間、一瞬、間があった。どういったらいいのかわからなくなって笑みをこぼしながら「どういたしまして」とその子は応えたらしい。
この「どういたしまして」という発言の力は、その子の〈教養〉というものだろう。コミュニケーションというのは(もしそんなものが存在するとしてのことだが)、知識の共有や情報の共有から生まれるものではなくて、こういった〈教養〉からしか生まれない。
「100円安くなった分、コーラのLにしませんか」などというようにして、立花隆は「ぼくが読んだ面白い本 …」をすすめているだけなのだ。立花は、ファーストキッチンの女の子以下なのである。
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