続々・子供に携帯電話を与えてはいけない 2001年03月16日
〈考える〉ことができるのは、根本的には一人でいるときしかないのです。
かつて都会の夜には駅のプラットホームの思考時間というのがありました。残業で一人になり、深夜のプラットホームで、待ち時間の長い電車を待つとき、人はその日一日あったことや、場合によっては人生のことまでも〈考える〉ことができたわけです(考えすぎて自殺する人がいるのもプラットホームです)。今は一人でも携帯電話で話し続けています。深夜でも一人であっても、忙しい会話でにぎわっているのが携帯電話の蔓延するプラットホームです。サラリーマンの唯一の思考の時間であるプラットホームさえもが、携帯電話によって消失してしまったわけです。
子ども達にとってのプラットホームとは、放課後の帰り道であったり、自宅での初めての自室(独立した部屋)です。そしてこういった空間が、携帯電話によって串刺しのように切り刻まれているのです。
もともとこういった空間は、〈話す〉空間ではなく、押し黙る、あるいは〈書く〉空間だったわけです。そして話すというのは、時間に追われて話すということです。話す=時間なのです。話すというのは根本的に忙しいことなわけです。一方で書くことは、空間的であって、それは時間を累積させます。ためることが書くという行為です。理論とは書くことの成果です。だから、書くことに近い話体である“東京弁”は、賢そうに見えますが、話体の極点である“関西弁”の大学教授の講義はとても理論的には見えません。“関西弁”をしゃべる人間は考えることから最も遠いところにいるわけです(私も京都出身ですが)。iモードメールも、書いているかのように見えますが、ほとんどのメールの文体は限りなく話体です。いわゆる“ため”のない書記行為なのです。時間に追われた書記行為。それがメールを書くという行為なのです。したがって、メールでいくら書いても、考えたことにならないのです。それは関西弁で書く、という矛盾です。明石家さんまのしゃべりを文字にして読んでも笑えるわけがないのと同じくらいに、メールで書くことは話すことの威力にすぎません。
子ども達から一人になる時間や押し黙る時間を奪ってはいけません。話すことが中心になったり、話体でしか書けなくなるような状態に子ども達を追い込んだりしてはいけません。お父さん、「ライフ・イズ・ビューティフル」をまだ見ていませんか?
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