子どもに携帯電話を持たせてはいけない 2001年03月14日
私の息子の話をして恐縮だが、今度高校に入学する息子のクラス(中学三年の卒業数日前のクラス)では、高校入試が終わったとたんに、入学祝いで携帯電話を買ってもらった生徒が多く、クラスの7分の6の学生が携帯派に一挙に変身したらしい。区立の中学でさえこうだから、私立であれば、12分の11くらいは(まったく根拠のない数字だが)携帯派だろう。
なぜ、世の親たちは、こんな馬鹿な入学祝いをするのだろう。携帯の最大の問題点は、自分の時間、一人になる時間を与えないということだ。これは〈考える時間〉を与えないということとほとんど同じことを意味する。特にこれから高校生になってやっと自分で考えはじめる年齢の子ども達に、帰り道でも、自宅の自室でも携帯“コミュニケーション”が横行することになると、もはや“自己”は、忙しい会話(ドイツの哲学者ハイデガーは、この会話をGeredeと呼んだ)のなかに解体するしかない。
大人の仕事の仕方でも、忙しく働いている人に仕事ができるはずがないように、忙しい子どもにもろくな子どもはいない。人間は“ため”がなくなると生活(=自然)の中に解体するだけなのである。仕事が「忙しい」と言う人は、仕事が“生活”になっているだけなのだ。本来、仕事は危うい〈選択〉の連続なのに、不可避なものの連続である〈生活〉が前面化する。これは、大人にとっても大人になる子どもにとっても決していいことではない。
同じように携帯は、“コミュニケーション”を〈生活〉化してしまったのだ。こんな貧相な“コミュニケーション”がかつてあっただろうか。
我が家では、息子(長男)には30才になるまで携帯電話を与えないという「家訓がある」ということにしている。実は、もう一つ「家訓」があって、サンタクロースは本当にいるということを20才まで信じ込ませるというものだったが(別にクリスチャンでも何でもないが)、これはもろくも小学校6年頃から守るのが苦しい「家訓」になってきた。「親がサンタだよ」という友達のアドバイスを反駁するのは簡単だったが(「一年間よい子にしていなかった子どもは、親という偽のサンタにしかプレゼントをもらえない」ということにしていた)、クラスでサンタの存在について多数決をとったとき、サンタを信じていたのがクラスで一番勉強ができない子と息子のふたりだけになったとき(この2人は確信をもって挙手したらしい)、さすがに懐疑しはじめたらしい。
だから携帯電話の30才も果たして守れるかどうか、あやしい家訓だが、持とうとしたときには息子に「勘当」を言い渡そうと思っている。
私自身は、SONYの503iを出たてで買って喜んでいるが(「芦田の毎日」284番参照のこと)、それは携帯電話というモノが好きなだけで、それで“生活”したりはしていない。中年男で携帯で“生活”している人というのは、不倫している男性ぐらいのものだ。
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