続・子どもに携帯電話を持たせてはいけない 2001年03月15日
親が子どもに携帯電話を持たせる直接的な理由がある。「塾通いなどで遅くなったときなどにも連絡が取りやすいから安心だ」というものだ。
「あなた、今どこにいるの?」というものだ。小学生から携帯電話を持たせる、超バカな親がいるが(もっとも私も含めて親というものはみんなバカだが)、なぜそうなるかというのは、この親から連絡が取りやすいというものである。またもうひとつ、子どもになにか事故があったとき連絡が取りやすい(安全だ)というものだ。しかし、携帯電話の〈存在〉は、親から子どもへのためにだけあるのでもなければ、事故のためにだけ存在しているものでもない。一度持たせると求心的、遠心的に自立的な“連絡網”ができあがっていく。忙しい会話(Gerede)のはじまりだ。世のお父さん、お母さん、子どもの要求に応じてはいけません。もし、友達はみんな持っているし、お父さんだってもっているじゃないか」と子どもに言われたら、「そんなにだれでも持っているのなら借りればいいじゃないか」と言っておきましょう。電話での連絡というのは、メール連絡と同じように、“連絡”の中で一番意味のない連絡です。死んだおじいちゃんの口癖は、「本当に必要ならここまで言いに来るよ」というものでした。それでいいのです。
「ライフ・イズ・ビューティフル」という映画(http://www.asmik-ace.com/LifeIsBeautiful/)で、主人公は自分の子どもにウソを言い続けました。迫り来るナチの暴虐に対してです。そして最後には子どもを救済することに成功します。この映画は反戦映画というよりは、ウソであれ、本当であれ、〈確信〉こそ「希望の原理」だというものです。ブレるということこそが、リーダーの条件にもっとも遠いものだというものです。会社の課長や部長でも、正しいことを言おうと意識する上司に限って、昨日と言うことが違ったりします。これではリーダーになれません。リーダーの条件は、真理を参照することではなくて、確信を保持すること(ブレないこと)なのです。だからこそ、リーダーはいつでも孤独です。「ライフ・イズ・ビューティフル」の主人公はだからいつもおどけていました。それは彼が(子どもにウソを言い通そうと)確信する人として孤独だったからです。であるからこそ、彼は子どもに未来を開いたのです。
したがって、この主人公は死体をさらすことなく、死にました(死んだことになっています)。死においてすら彼は孤独だったわけです。リーダーは死ねない(死体すらさらせない)ほどに確信を保持しなくてはならないのです。
子どもに携帯電話を持たせてしまったお父さん、「ライフ・イズ・ビューティフル」をぜひ見てください。民主的なお父さんというものが、いかにダメなのか、何が子どもにとっての「希望の存在」なのかがわかるかと思います。勇気を出して、子どもから携帯電話を取り上げましょう。
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