連載:高等教育・職業教育・生涯教育(7) 2001年02月09日
2-15)社会人教育の経験とこれからの専門学校
われわれの「履修改革」は、「科目」という単位で、そして90分の「コマ」という単位で目標と評価を行うということだった。
これは、教育力を〈学年〉という単位で表現する旧来の〈学校〉形態からの逸脱とも言える。むしろ(先にも触れたとおり)〈学年〉や〈担任(クラス)〉という単位こそが諸悪の根元だったのである。
なぜ、〈科目〉という単位に定位しなくてはならないのか?
今、大学、短大、専門学校では、インターンシップや単位互換提携が盛んに行われている。要求される知識や技術が年々高度化(急進化、複合化)しているからだ。こういった外部の教育組織(教育形態)との提携を成功裏に終わらせるためには、科目単位で修得した技術や知識の集積が明確に評価・表現されていることが必須の条件になる。外部との関係を問われるときには、学年という単位(ピリオド)は用をなさないのである。
たとえば、「科目等履修生」という制度がある。生涯学習時代にふさわしいシステムにも関わらず、ほとんど利用がひろまらない。突然、外部の受講生が入り込んできて、耐えうる授業を行っている学校が存在していないからである。“その”科目のつじつまは、他の科目で合わせられていたり、学年の最後や卒業の最後でつじつまが合ったりしているからである。科目の目的と評価が科目の中には存在していないからだ。だから「科目等履修生」を受け入れることができないのである。
こういった〈外部〉を意識することの意味は、何も教育的な提携だけのことではない。社会的な出口に一番近い高等教育機関は、社会という〈外部〉にもっとも敏感な提携関係を持っていなくてはならない。出口の要求に端的に応えられる体制を有していなければならない。そのときに、〈担任〉や〈学年〉という単位でカリキュラム評価したり、学生評価する体制は、むしろ“提携”の大きな壁になっているのである。
東京工科では、「履修改革」に先立つ3年前、1996年に、社会人教育組織:テラハウスICA(Institute for Career Advancement)を立ち上げた。主に情報系の教育を中心にカリキュラムを組み、現在では、東中野テラハウス一拠点だけで月間のべ10,000人の社会人を受け入れている。
このカリキュラムでは、たとえば、〈ワープロ講座〉という括りで、講座を何日間もパッケージするのではなく、ワープロの〈罫線〉という講座や〈タブ〉という講座を単独で受講できるようにしている。いわばそれらは〈科目〉単独売りなのである。従来の〈ワープロ講座〉であれば、それを受講しても易しすぎたり、難しすぎたり、あるいは学びたいことが学べなかったりもした。〈ワープロ講座〉を受講しても、3・4割は無駄な勉強だったのである。しかし、何が無駄なのかが〈ワープロ講座〉という括りでは、受講者の方もカリキュラムを主宰した方もわからない。かりにその〈ワープロ講座〉が人気があってもなくても、何が内容的に評価されたり、評価されなかったりしているのかがわからないのである。
テラハウスICAでは、したがって、ワープロ講座(Word講座)、表計算講座(Excel講座)などのパッケージを一切作らず、それぞれWord罫線講座、Wordタブ講座、Word長文作成講座、Excelグラフ講座、Excel日付関数講座、Excelピボットテーブル講座などに分割して単独で受講できるようにしている。こうすると、講座の評価が受講者にとってもカリキュラムの主宰者側にも自立的に行うことが出来るようになる。授業運営のまずい講座、あるいは、必要性の薄い講座は自ずと受講生が少なくなるため、原因の特定化がしやすくなる。また講座が内容的にも時間的にも最小単位で自立しているため、人気のない講座を廃止したりや新技術の講座を新設しても他の講座との関係で影響を受けることが少なく、社会的な需要に機敏に対応できる。
学びたいことが(実際に)学べる、という当たり前の要求に応え続けて、年々受講生の評価が高まり、月間10,000人の受講生を集めるようになったのである。
そのように、まさにコマ単位の授業管理ノウハウ(目標設定と評価ノウハウ)が、今回の「履修改革」の諸動機を形作っている。
科目の実力を一つ一つ付けていくこと。これは何らかの方針でなし得る課題ではない。むしろ科目を丸裸にして、周辺のノイズを取り払うことが必要なのである。それが実力ある科目(実力ある授業)かそうではないかは、有名な講師や先進のカリキュラム、先進の設備、何らかの授業方針で決まるものではなく、“今日の授業”が抱える問題が内外に見えやすい形をとっているかどうかで決まるのである。それが学校の教育力というものの在処なのである。
〈補習(補講)〉〈追再試〉の廃止はもちろんのこと、〈担任〉、〈学年〉などの機能を縮減していけば、おのずから〈科目〉は実力を付けざるを得なくなる。むしろ、何が〈科目〉評価を妨げているのかというところから「履修改革」は現実化するのである。
どんなに時間がかかっても、この改革を成し遂げねばならない。新科や設備ばかりを更新しながら目先をごまかし続けてきた学校、官庁やベンダーの助成金、資格パッケージに走って教務機能を強化しなかった学校は、もはや生き残れない。すべて、それらこそが“現実的な”改革だと言いながら長続きせず、最も空虚な改革だったことに今頃気づきはじめたのである。
われわれは、教育力そのものの向上なしに、この危機は乗り越えられないと思っている。まさにノウハウ(=コア・コンピタンス)を蓄積する長い時間が必要なのである。そして、長い時間を覚悟することこそが、この改革をラディカルなものにするのである。(第2章:東京工科専門学校の試み/了)
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