今、京都駅にいます 2001年01月18日
身内に不幸があり、今日一日京都に帰ることになった。今、京都駅の喫茶店にいます。死んだのは義理の叔母。おじさんはまだ健在なので(とは言ってもちょうど持病で彼も入院中の出来事だった)、妻に先立たれたことになる。これはショックだろう。
私は、結婚相手が見つかる、結婚生活に入るというのは、結局のところ、死ぬことのみが2人を分かつ唯一の契機であるような関係に入ることだと思っている。
恋人は、世界の〈内〉で別れる。しかし夫婦は世界の〈際〉で別れる。
浮気の原理は単純なものだ。相手の女性がいつかは他の男に移行すること自体が好奇心を惹起し続けているのである。相手の女性に〈他者〉 ― 自分を否定するもの ― を発見するときにこそ、浮気は昂進する。しかし、それは貧弱な他者だ。貧弱な想像力だ。
成長して一人の異性と性的関係に入るということ自体が、生理的には、自らの死を意味している。子どもを生むことができるようになるということは、もう死んでもいいということだからだ。性的関係には、どういう仕方でか、他者=死(の影)が入り込んでいるのである。私の子どもがまだ小さいときに、外出する私に「バイバイ」と言って家の玄関から送ってくれたことがあったが(よくある光景だが)、あれは、「もうお父さんは死んでもいいよ」という意味なのである。あの世へ「バイバイ」なのである。「なるほどね、確かにもう自分はいらないな」と心で思いながら振り向かずに手を振っていたものだ。
そして浮気の場合には、他の異性が、夫婦の関係には、死そのものが2人を分かつ(つまりは結びつける)原理を形成している。死が2人を分かつというのは、つらいことだ。それは好きなまま別れるということを意味するからだ。好きなまま別れるという死の予感が夫婦(の性的)関係を昂進している。これほど“深い”関係はないだろう。それは世界の〈内〉のどんな関係よりも深い。世界の〈際〉(〈世界〉という際)で起こっている関係だからだ。それは死の共同体なのである。
そして、自分より先に妻が死ぬ。それはないでしょう。勝手に男(あるいは女)を生んでおいて、先に死ぬというのは、世の中のどんな暴力にもまして暴力的なことでしょう。どんなに料理がうまくても掃除がうまくてもそして利口な妻であっても、夫より先に死ぬ女性なんて、悪妻の極みでしょう。料理が下手でも掃除が下手でも、そして少しくらい知恵が足りなくても、好き勝手した夫を見送れる女性こそ良妻というものです。
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