続・HONDAのロボット「ASIMO」について 2000年12月11日
行動主義は、〈心〉という〈内部〉は存在しない、と考えるわけではない。〈心〉とは、(反応的行動)の効果(effect)だと考えているのである。
たとえば、「男は外見じゃない、中身よ」という女の子がいたとする。もし、この言明が本当なら、この娘は誰とでもまず(無条件に)交際を開始しなければならない。
ところが、そんな娘に限って、交際を申し込むと「忙しいから」と言って断られる。これはどういうことだ(何度そうやってだまされたことか)。
結局、その娘は、外見(behavior)で選んでいるのである。彼女の言う「中身」は、交際の結果生じた「中身」であって、「外見」と対照される「中身」ではない。「外見か、中身か」というふうに対照される「中身」ではない。
「外見じゃない、中身よ」というのは、「付き合ってみると外見から思ってたほど悪い人じゃない」ということだろうが、そすると、その最初の「付き合ってみると…」の付き合いは、どうやって始まるのだろうか?
この「付き合ってみると…」の開始は、むろん「中身」が動機にはならない。「中身」は、付き合わない限り見えないからだ。最初に出会えないものは、したがって選択の対象ともならない。したがって、付き合いの開始(の“動機”、あるいは“選択”)は、それ自体「中身」ではなく、「外見(behavior)」である。
つまり、交際を開始する段階で、すでにある種の選択 ―「外見(behavior)」に基づいた選択 ― が終了しているということだ。要するに「外見」が二重化しているのである。
ちょっと整理してみよう。
「付き合ってみると外見から思ってたほど悪い人じゃない」と言う場合の「外見」は、付き合ってから生じた「外見」、結果としての「外見」である。これを、〈外見A〉と呼ぼう。
その「付き合ってみると…」の付き合いを開始する気になるかどうかをその娘に判断させている外見。これは文字通りの外見。この外見に基づいて、〈外見A〉と「中身」が二重化されている。この外見を〈外見B〉と呼ぼう。決着 ― ハイデガーという哲学者は、この「決着」を、ドイツ語でAUSTRAG(「決着」はもちろんのこと、(新聞・郵便物などを)配達する、持ちこたえる、耐える、調停する、([リストなど]から)自分の名を消す、守り抜く、保留する、などの意味があります)と呼んでいました ― は、いつもこの〈外見B〉においてついている。つねにすでに〈外見B〉において、“人間関係”は終わっている(つねにすでに終わっているし、そのようにつねにすでに始まっている)。この〈外見B〉は、いわば、「コミュニケーション」における原初の《外見》とでも言えるものである。
行動主義が「行動(behavior)」と呼んでいるものは、この〈外見B〉のことである。〈外見B〉が「人間である」ものは、〈心〉から「人間である」のである。
この〈外見B〉は、フッサールが「現象」と呼んだものに限りなく似ているように思える。事実、行動主義は、フッサール現象学の直系の(あるいは傍系の)弟子であるかのように振る舞ってきた。しかし、果たして、行動主義が現象学のあだ花だとしたらどうであろうか?
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