HONDAのロボット「ASIMO」について 2000年12月01日
HONDAが作った2足歩行のロボット「ASIMO」が最近話題になっている。70年代80年代に流行ったのは、人工知能論やロボット開発だった。ところが90年代、そういった人工知能論とロボット開発の陰に隠れていたネットワーク技術(通信技術)が一気に前面化する。インターネットだ。そして10年の“潜伏期間”を経て人工知能論やロボット開発がまた流行りそうだと巷での噂。
実際に、人間が歩くように“歩く”ASIMOをみていると、中に人間が入っているような気になる。機械が人間をまねているのではなくて、人間が機械をまねているように見える。これは、思想的には、行動主義(behaviorism)の勝利と言える。
行動主義というのは、人間というものを実体化するのではなく、刺激と反応の関係(あるいは機能)の編み目の中で見出そうとする。
なんらかの〈心〉〈精神〉〈思考〉〈人格〉などが、まず存在していて、それが〈人間〉を構成していると考えるのではなく、ある刺激(INPUT)に対して、その被刺激体が、どんな反応(OUTPUT)をするのかが、その被刺激体が何〈である〉のかを決定する、というのがワトソンが提唱した「行動主義」の思想である。
この立場からすると、人間とは、人間らしいOUTPUTをもつX(エックス)のこと〈である〉。身体(からだ)の中に血が流れている、というのは人間の証には必ずしもならない。血が流れていても、場合によっては、植物以上に反応の薄い人間もいるかもしれない。
行動主義は人間を形式的に差別しはしない。温かい血が流れている、というのは人間にとっては形式的なことで、だからといって、その人間を人間的であると見なすべきではない。そのことと温かい心を持っていることとは、まったく別のことだからだ(と行動主義は考える)。
では温かい心を持っているとはどういうことか。それは、温かいこころを持っていると判断できるOUTPUT(行動)が存在するということだ。ということは、ロボットが温かい心を持つということは可能ではないか、というのが行動主義の核心だ。温かい心を持つということは、温かい心を持つと判断できるOUTPUT(=表現)がそうさせているのだから、「温かい心」が先にあるわけではないのである。「温かい心」というのは行動や表現の結果なのである。
つまり人間が歩くかのように歩くことができるASIMOは「人間である」ということである。
脳死=人間の死と日本政府がみなしたのはつい最近のことだが、これも行動主義の立場に日本政府が立ったということを意味している。脳死が人間の死と同じだというためには、機能しない(反応しない)ということは、存在しないことと同じだという前提に立つことだからである。ちょうど社会主義が「働かざる者食うべからず」と言ったのと似ている。現に社会主義国では、昔から特権階級(共産党幹部)への臓器移植が横行していた。
人間の存在が、機能的(ファンクショナル)な存在であるとみなすかぎり、ロボットは、どこまでも人間的な存在になり得るだろう。しかし、はたしてそうなのだろうか。もし脳死が人間の死ではないとしたらどうだろうか。
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