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 テラハウスからの労働省への提案(2000/9/25) 2000年12月31日

遅蒔きながら、労働省の「IT化に対応した職業能力開発研究会」(http://www.ashida.info/trees/trees.cgi?log=&v=108&e=msg&lp=108&st=0)で発表した内容の概略をレポートしておきます(これまでの私の講演・論文と一部重複しているところがあります。お許し下さい。
                 

0)はじめに

  私ども「東京工科専門学校」ということで都内に4校の専門学校を持っておりまして、30年前に自動車系の専門課程から始まりまして、建築・インテリア系、情報系、バイオテクノロジー系まで、主に工業・技術系の職業教育を自分たちの分野にしている学校であります。

96年4月に東中野駅前に新しい校舎(「テラハウス」地上11階・地下1階)を建てるということで、「キャリア開発研究所(Institute for Career Advancement)」(略称・テラハウスICA)という新しい職業生涯学習の教育組織をつくり、カリキュラムを立ち上げ、脱18才層受講生の募集を始めました。

そのときぼんやりと考えていたことといえば、18歳の人口が減少していくなどということは耳にタコができるほど聞かされていて、専門学校ももっと広いマーケットで学生募集をしていくような、そういった展開ができないかということはもちろんなかったわけではないんですが、そういう仕方でマーケットを拡張して、取ってつけたように新しい組織をつくって生涯学習を展開しても、多分うまくいかないだろうということ。

例えば、私立の中学校が小学校にまで枠を広げて「附属」を作りマーケットを広げるといったのと同じで、専門学校も18歳層にもはや期待しないほうがいいと。「生涯」学習ということになれば、(キッズ層から)シルバー層も含めて広範なマーケットが期待できるというような展開というのが一方であったわけですが、多分そういうことではないだろうというのが我々が考えていたことです。

社会全体が大きく変わろうとしていると。それは子供が減少しつつあるということの問題ではなくて、学習のあり方や知識のあり方、そして仕事の仕方自体が根本的に変わろうとしているのではないかと。従来から「職業教育」を標榜してきた専門学校こそが真っ先にそういった新しい学習のあり方や、あるいは新しい職業人の人材形成について答える義務があるのではないのかとおもったわけです。
 
1)新知識主義と生涯学習社会

我々がまず考えたことは、〈知識〉ということの意味が最近変わってきているぞという予感についてです。

これまでは〈知識〉といえば、〈現実〉だとか、あるいは〈実務〉だとか、あるいは〈実践〉みたいなものと切り離されて考えられてきて、むしろ対立するものとして考えられてきたわけですが、コンピューターがパーソナル化し、「パソコン」という形をとってどんどんどんどん大衆化していきますと、〈知る〉ということの意味が変わってきて、〈知る〉ということが極めて実践的で行動的な内容を持つようになってくるということがあります。むしろ〈知っていること〉と〈できる〉ことがイコールになるような環境がコンピューターメディアの普及によってどんどん広がりつつある。

お手元にお配りしているアウトラインでは、車の話を例として出しておりますが、たとえば車でも、ブレーキングの技術というのを習得するにはかなりの時間がかかりましたし、特定のセンスを持っていなければ、そういったブレーキを上手に踏むということはできなかったわけですね。ところが、今日のようにコンピューターシミュレーションによるブレーキングシステムの技術が進んできますと、「アンチロックブレーキ」や「トラクションコントロール」、あるいは最近では「ブレーキアシスト」といったようないろんなシステムが車の中に入り込んできて、とりあえず踏めば何とかなるみたいな状況が、まだまだ技術的には未熟ではあるけれども、そういった状況が生まれてきている。〈ブレーキを踏めば車がとまる〉という知識のレベルでの操作で“実際に”車が止まる。知的な操作がそのまま、これまでかなりの熟練技術を必要としたブレーキングの技術に取ってかわりつつあるということです。

そういった分野は、例えば私どもであれば、建築系の大きな科を持っているわけですが、手書きの図面の作業がCADにかわっていくという場面に対応しています。専門学校は、従来2年間(あるいは3年間)何をやっていたかというと、ある意味では、きれいな線(あるいはきれいな図面)を描く勉強を「実習」と称して時間をかけてやっていたわけですね。それは文字どおり時間がかかる学習でありましてなかなかそれは、〈こう引けばこうなる〉ということを知っていても、きちんとしたきれいな図面を描くということは大変難しくて、まさにこの限りでは、〈知っていること〉と〈できる〉こととの間に大きな距離があったわけです。それはあらゆる分野でそういった距離があったわけですけれども、CADであれば、〈操作を知る〉ということと〈線を引くことが(実際)できる〉ということの意味はほとんど同じ状況になってくる。そうすると、実習に長い時間を割いて図面を書いていくというプロセスというのがコンピュータに介在されたシミュレーション技術を駆使するレベルでは、〈知識〉にかわってくる。つまり熟練技術の形成というのが〈知る〉ということの中へどんどん変貌して入ってくることが起こってきます。〈知る〉ということが実践的な意味を持ち始める。

専門学校の職業教育というのは、大きな「実習」時間を割いて、かつ業界なり官庁の規制の中で実習時間何時間というのをあてがわれながら、なかなか融通をきかせにくいカリキュラムの中でやってきていました。その中でやってきたのはほとんどが習得するのに時間がかかる教育、つまり身体(の馴化)に依存した熟練技術の教育というものを専門学校は社会的には負ってきたわけです。そういった馴化・熟練学習の部分というのが、コンピューターメディアを介在させる昨今の技術普及によって、どんどん知的なものに変貌しつつある。その中で、教育の内容が大きく変わろうとしてきているということを我々は考えてきたわけです。

つまり、身体や熟練した手仕事を介在させなければいけない教育の分野がどんどんどんどん縮小しつつあるということです。高等教育における職業教育というものの意味が大分違ってきているということ。

今たとえば「OJT」だとか、あるいは「インターン制」ということで業界との交流をしなければいけないみたいな話が我々の学校の中でもあるんですが、そういう「OJT」や「インターン制」が教育カリキュラム全体の中に位置づく意味は、学校教育が〈知識〉や〈理論〉のレベルでしか物事を教えていなくて、もっと“実践”や“現場”を知らなければいけないというようなスタンスで語られることが多い。

しかし、それは実は間違っているというのが私たちの認識です。
そうではなくて、先ほどの私の言葉の続きで言いますと、むしろ“現場”だとか、“実務”だとかというものがかなり知的になり、知性化されてきて、マニュアル化されて、現場が透明なものになって、むしろ現場自体の教育機能がかなり増しつつある。組織の中でも、今、自分が何をやっているのかとか、上の人間がどういうことを考えているのかとか、今この会社全体がどういう仕事をしているのかということが見えやすくなってきて、つまり会社組織自体が知的になりつつある。それはコンピュータによるネットワークだとか、グループウエアだとか、そういったことが企業組織の中にどんどん入り込んできているということと同じ動きなわけです。「社員研修」は何も不況で縮小しつつあるだけではなく、会社の組織システム自体がグループウエア(ネットワーク)によって教育的な機能を持ち始めているということです。仕事をするということと教育する(啓発する)ということとが不可分な状態になりつつあるのです。

 それはどういうことかというと、教育の分野にもどんどんコンピューターメディアは入り込んで、知的になる分、実践的になる。つまり〈知る〉ということが〈できる〉ということとイコールになるような状況が生まれつつあるということであって、むしろ教育において「OJT」や「インターン制」が普及しつつあるということは、教育が理論的なまま(実務に無知なまま)であったということではなくて、教育自体も現場と同じような実践性を持ち得るような、そういうチャンスが拡大しつつある状況なんだというふうに我々は思っています。

そういう意味で言いますと、教育現場というものとビジネスの現場、あるいは職場というものとがかなり近接し始めてきているということがあって、これが「生涯学習」といわれているものの基盤なのではないか、と私たちは考えています。

学校がそのように実践的であるとすれば、職場は、したがってその分逆に知的になっているというのが、「生涯」教育の中身であるわけです。つまり社会全体が教育的になっているということです。文部省は、「生涯学習社会」といったわけです。

職場自体がどんどん知的=透明になってきますと、会社全体のことが見えたり、だれがどこでどういった行動をしているのかということがどんどんどんどん見えてきますし、見えやすくなってきますから、自分のポジションと自分が全体の中で何をやるべきかということが見えてくるという点では、知識の総合性というものがかなり要求され始める。これはよく言われることですが、階層的なラインであったり、部門制的な分業というものの垣根がどんどん崩れてくる。そういったことが崩れる根拠というのは、従来であれば、会社に勤めて10年20年というふうに経験を積めば、ある種の専門的な知識や技術が身について、新入社員には負けないくらい知識や技術をもった「エキスパート」、あるいは「課長」や「部長」が生まれ、そういったある種の“熟練”的なポジションというのが存在したわけです。要するに従来の「専門性」とか「マネージャー」というのは、〈経験〉のあるなしを基本に形成されてきたわけです。ある場所に“長くいる”ということが“情報収集”の唯一の武器だったということです。

ところが〈経験〉を積まないとわからないようなこと、できないことというのが、コンピューターメディアに媒介されたグループウエアだとか、あるいはデータベースのパソコン解放(ネットワーク解放)によって解消しつつある。課長や部長の10年や20年の〈経験〉の重さというものが「情報の共有」の中で一気に軽くなってくる。〈経験〉は“共有”できませんが、“知識”や“情報”は共有できるわけです。もともと部門制や階層制は、“経験の重さ”によってできていた体制であって、それらは「情報の共有」 ― 私の言葉で言えば、〈知識〉の実践性 ― が全面化し始めると直ちに流動化する。その都度、知識を更新しなくてはならないような状況が生まれてくる。というより、もともと更新されないような知識(や情報)は知識ではないと言えます。〈経験〉という敷居、つまり部門的な差別や階層的な差別が、知識の本性である更新性を妨げてきたといえます。

コンピュータ(パソコン)というものはそういった意味では会社の階層、あるいは横並びの部門、ある種のスペシャリズムみたいなものの境界を取り払っていく非常に民主的な機械でありまして、それはただ単に専門家と門外漢、部長と新入社員の垣根だけではなく、子供と大人の境界、あるいは男性と女性、会社と家庭などの垣根も同時に取っ払っていく。要するにそれらの従来の境界、垣根はすべて〈経験〉的な差異であったわけです。

こういった社会の、経験主義を越えていく傾向が、生涯学習(「リカレント」・「リフレッシュ」学習)ということの基盤、歴史的な基盤になってきているんだというふうに私たちは考えたわけです。つまり、コンピュータメディアに媒介された、新しい知識主義が社会の流動性を全面化し始めると、学習の「生涯」化は必然的なものになってくる。「学校」教育の“後”は、「“経験”を積みなさい」と言うだけではすまなくなってくるわけです。

私たちが考えたのは、こういった教育の「生涯」化を加速させるパソコンによるコンピュータ解放そのものをカリキュラムの中心に据えるということでした。

2)ユーザーコンピューティングの現在

さて、コンピュータのパソコン化現象の象徴的なものは〈ユーザーコンピューティング〉という領域です。たとえば、かつて〈社長さんが〈秘書〉に手書きの文章をワープロで打たせていたような意味での「コンピュータ化」がコンピュータスペシャリストたちの仕事でした。秘書が自分の仕事のためにコンピュータを使うのでないのと同じように、これらのスペシャリストも他人の仕事に奉仕するためのコンピュータスペシャリストであったわけです。

利用する者自身がコンピュータを使うということは、当たり前のように見えてそうではありませんでした。ワープロも書く者と操作する者とが別の者である限り、単なる“清書機”にすぎません。鉛筆が書くための“道具”であるようにしてワープロもまた鉛筆代わりの、きれいな字を書ける“道具”にすぎないわけです。

 しかしワープロは、むろん鉛筆代わりの道具なのではありません。
 ワープロの数々の機能、「COPY」や「移動(切り取り)」、「挿入」や「削除」、「単語登録」や「語句置換」、「語句検索」といった基本的な機能から豊富な表現能力や書式設定の多彩さは、“人間”がものを考える過程そのものに対応しています。

 出来上がった文章(“紙”に“出力”されたことば)は、いくつかの〈章〉から、章の下位の〈節〉から順序よく論理的に構成されているかに見えますが、それは“頭”の中で考えたこと(浮かんだこと)をCOPY(反復)し、移動し、挿入し、削除したことの結果にすぎません。われわれ人間は、文章を〈はじめ〉から〈終わり〉へ向かって書くように(“紙”に展開するように)考えるのではなくて、(“頭”の中で)COPY(反復)し、移動し、挿入し、削除しながら書くわけです。紙の媒体に移された文章(テキスト)は、むしろその結果にすぎない。「起承転結」の論理性の方が、「紙」と「鉛筆」いう媒体に制約された非人間的な性格をむしろ有していると言えます。

 〈書く〉という行為がワープロ登場以前に《紙》の媒体に書くことでしかなかったときには、〈ノート〉や〈文献カード〉が思考過程の方を受け持ち、〈原稿用紙〉が(思考の)論理的・構築的な表現を受け持っていました。KJ法はこの両者を紙の媒体で(ありながら)統一的に行おうとしたところに意義がありましたが、ワープロでは特にKJ法をことさらに意識しなくても、書くことはKJ法で書くことだということです。

 従来、なぜ人々が〈文章〉を書きたがらなかったのかというと、頭の中に考えが浮かぶことの秩序(思考の時-空)と書くことの秩序(書くことの時-空)が異なり、書く前に考えを整理し、書く秩序に適応させることを頭の中で前もってまとめなければならなかったからです。頭の中に浮かぶことは秩序というよりはむしろ無秩序であり、浮かんだり消えたり、因果関係があったりなかったり、後先が逆であったり、長短がいびつだったりしますが、原稿用紙に書くときは整然と論理的に整理された形を(前もって)強要され、思いつきは許されず、取り消しや訂正にも限度があるというように思考と書記行為との間には落差が生じます。この落差の緊張感に耐えることは修練がいるし、場合によっては〈文才〉というものに神秘的な仕方で依存することもあった訳です。

 しかし、コンピュータ(ワープロ)の諸機能は、前もって考えることとそれを書くこととの根本的な断絶をほどいたわけです。思ったこと、浮かんだことをとにかくそのまま書け(打て)ばいい。論理性や展開は、あとでゆっくりと ― 「コピー」したり、「移動」したり、「削除」したり、「挿入」したりしながら ― 考えればいい。ここでは考えることと書くこととが最初から同じメディアの中で生じている。“脳”の中に浮かぶことがメディアの中で展開し、「コピー」「移動」「削除」「挿入」をすることはそのまま〈考えること〉=〈書くこと〉につながっています。

  したがって、ワープロは、書く人(=考える人)自身が使わなければ意味がない。ネットワーク(インターネット・イントラネット)がはやり始めたときに、エンドユーザーの「エンド」とは社長(会社のトップ)のことだ、と喝破した人がいましたが、それは、けっきょくのところ、ワープロが清書機ではない、ということが社長にもわかり始めたということを意味しています。パソコンは自分が利用してこそパソコンだということです。

 現在、会社のパソコン利用でもっとも深刻なのは、〈システム室〉と〈ユーザー〉との対立です。社内のネットワークやデータベースを管理している〈システム室〉の最大の願望は、ネットワークを使うな、データベースを使うな、ということです。〈ユーザー〉は、勝手な使い方をしてネットワークを壊したり、無理難題を言って(システム室の)仕事を増やすばかりだからです。〈システム室〉から見れば、〈ユーザー〉は単なるパソコン(あるいはコンピュータ)の“素人”
にすぎません。ほとんどの会社では、専門家の〈システム室〉、素人の〈ユーザー〉という対立の中でパソコンが使われています。かつては、こういった対立を中和させるために「シスアド」などという“職種”がもてはやされてきました。しかしいまでは、「シスアド」は、概念の中では存在しても、実在したことは一度もありません。今後もあり得ないでしょう。「シスアド」とは、コンピュータのことも仕事のことも中途半端にしか知らない人のことを言います。

 仕事のためにコンピュータがあるのであって、コンピュータのために仕事があるのではありません。したがって、コンピュータ活用の鍵は、どこまでも仕事のためにパソコンを使っている〈ユーザー〉が握っているわけです。今日の〈ユーザー〉は、〈システム室〉をあてにしていません。彼らをあてにしていると仕事がいつまでもできないからです。ヒアリングや仕様書作成から仕事を始める〈システム室〉をあてにしていては、本来の仕事がいつまでたってもできないからです。また流れの速い、総合性の高い今日の仕事のあり方の中では、仮に思った通りに〈システム室〉が仕事をしてくれたとしても、すぐに役立たずになってしまいます。変化に対応するためには、〈ユーザー〉が自立的に“システム”を形成するしかないわけです。はやりの〈分散〉型システムとは、結局のところ、〈システム室〉を介在させないで仕事をする方法のことです。従来の〈システム室〉はここで解体したわけです。パソコン活用に〈専門家〉はいないということです。つまり、使う人(=〈ユーザー〉)に学ばせることが、狭い意味での専門家育成よりははるかに仕事のIT化を加速させるということです。仕事を知っている〈ユーザー〉こそが妥協のないIT化を進めることができるのです。

3)生涯学習カリキュラムのあり方について

以上のように、①〈知識〉のあり方が変化していること ②〈ユーザー〉コンピューティングがIT革命の鍵を握るということ、この2点が、私たちが社会人教育に取り組む前提になりました。

カリキュラム作りで、第一に考えたことは、「資格」「免許」カリキュラムをメインカリキュラムとして持たないことでした。「資格」だとか「免許」というのは、私たちが言う意味での知的な軽さといいますか、あるいはスピードに対応できない。今の社会のあり方が先に言ったような意味で知的に軽くなって、日ごとに仕事の性質が変わりつつある状況の中で、資格の内容を教育プログラムとして持つということは、そういった動向に反する動きだということをまず思ったこと。資格問題を作成している“委員”の人たちも、1年か2年で変わるだろう問題を真剣に作ったりはしない。日本語すらおぼつかない問題もたくさんあるわけです。もう一つは、資格講座に依存しますと、これは専門学校の最大の問題だと思いますが、従来、専門学校は資格を取るところだというふうに、いい意味でか悪い意味でかわかりませんが、社会的にそういう仕方で認知されている部分が多かったわけですが、これは教務機能が必ず衰退していく。資格のカリキュラムというのは、(他人が作った)教科書や教材がすでにできあがっていて、何を学べば、あるいはどこまで学べば受かるかということがわかっているわけですから、社会人や、あるいは18歳で入ってくる学生に対して、一体どんな教育をすべきなのかという根本問題を自立的に考える契機を失ってしまいます。いわば、学校の〈頭脳〉とも言える部分を、資格・免許講座体制は衰退させて行くわけです。

そうやって衰退していきますと、学校間の格差、特徴も無くなってくる。つまり教育内容は受かるか受からないかの、極端に言えば、予備校風ではないにしても、“合格率”だけが問題になってきますから、特徴のある学校運営だとか、特徴のある学校カリキュラムというものがでてくる要素が非常に少なくなってきます。そういったことになってきますと、一体何を自分たちの学校の目玉として売り出していくかという部分がなくなってきて、校舎や設備がきれいだとか、駅から近いだとか、名物講師がいるといったようなことだけにしか残らないような状況になってくる。

 私どもの学校で、一番大きな世帯は自動車整備系と建築系ですから、私ども自体が今考えている部分では、やはりカリキュラムをつくる能力について抱えている課題がかなりほかの学校と比べて多い。それは、整備士の免許だとか、あるいは建築2級の免許だとかといったようなこととかかわって、なかなか個性的なプログラムを打ち出せない状況が生じていました。たとえば、まだ学内では〈学務〉事務と〈教務〉との区別さえつかない人がまだたくさんいる。

そういった状況というのは、多分多かれ少なかれ専門学校が抱えている問題だと思います。そのためにも、私たちが考えたのは、まず「資格」カリキュラムを外すということでした。「資格・免許」需要は、安定的なマーケットではある(かもしれない)けれども、そういったものに依存することなく、今社会人が本当に必要としているカリキュラムを自力でつくり上げるような体制をとっていかなければいけないんじゃないかというふうに思ったわけです。逆に言えば、資格教育機関は、社会的な変化や仕事のあり方の実際に目をつむることができるし、実際盲目なままになっているということです。試験合格(のためのスキル開発)が至上目的であるのですから、そうなるのは当然のことだったわけです。

 2点目は、〈コース制〉のカリキュラムを持たないということ。これは通常のパソコンスクール等の比較で考えていただければいいんですが、社会人教育になりますと、例えば「ワード初級コース」だとか、「エクセル中級コース」だとか、そういったものがいっぱいあるんですが、そういった「コース制」というのも知的な時代のスピードに対応できない。一つは社会人が、5日間とか6日間とか、1週間でも何でもいいんですが、そういった日程を学校側が作った日程どおり来てくれる保証はどこにもない。毎日忙しいですし、いつ何が起こるかわからない。コース制であれば、例えば1日目、2日目、3日目とまあ3日目ぐらいまではちゃんと出たんだけれども、4日目に突然の会議が入って来れなくて、5回目、6回目を参加するのがもういやになってしまう(というかわからなくなる)というようなことは幾らでもあるわけで、リカレントプログラムでコース制を形成しながら社会人の人たちに勉強していただくというのはかなりきついということです。

 それと、さらにコース制であれば、例えば「ワード初級」を10人で募集した場合、その10人の人たちが「初級」とはいいながら必ずしも同じ理解力を持っているとは限らない。また、同じ目的を持って「ワード」を使おうと思っているとも限らない。そういったばらつき ― ある意味では、偏差値格差以上のばらつき ― をコース制であればずっと抱えながら、1週間、あるいは2週間教えなくてはいけない。これは受講者にも大変きついことでありますし、教えている教員の負担もかなりのものになる。学生を相手にするのと社会人を相手にするのとでは、ただ単に偏差値が違うというだけではなくて、独特のばらつきを意識しなくてはいけない。わからないまま1週間の〈コース〉を過ごす、やさしすぎるまま1週間の〈コース〉を過ごす、これは忙しい社会人にとって耐えられない学習の仕方です。そういう点でコース制というのは、「生涯」学習にとってふさわしくないカリキュラムのあり方なわけです。

 さらに、社会人が何か今現場で学びたいものがあるときに、1週間も学んでいるぐらいであれば、どこか隣の人に聞いた方がいいとか、電話をかけて聞いた方がいいよとか、などと幾らでもコース制の問題があるわけで、ワープロを学ぶのに1週間も時間をかけていれば、もうやらなければいけないことはとっくに過ぎているということが出てきます。

また「ワード」を学ぶといっても、何もワードのすべてを学ぶわけではない。すべてを学ぶというのなら何日あっても足らない。けれども実際に知りたいことは、「ワード」の機能全体からいえば、ほんの小さな部分です。コース制では難しすぎる(多すぎる)ことか易しすぎる(少なすぎる)ことを学ぶ、言い換えれば、自分に必要のないことまでを学ぶという問題も含まれています。学習のスピードの速さだけではなく、何を学ばなければいけないかという学習課題も日毎更新されているということです。その点でもコース制は非常に不適切なカリキュラムの形態であろうというふうに思っています。

あと3点目ですが、我々のシステムは、基本的にはワードで幾らお金をいただくだとか、エクセルで幾らお金をいただくだとか、あるいはJAVAのプログラミングで幾らお金をいただくというふうに、内容主題別にお金をいただくシステムを採っていません。定額制(月謝制)のシステムが基本システムになっていまして、一月5.8万円(受講料)、一年でも34.8万円をお支払いいただければ、毎日来ていただいて結構だと、そういうシステムになっていますので、ワードを受けようが、JAVAを受けようが、ホームページ作成を受けようが、一月6万円弱で済む。あるいは一年毎日来ても35万円で済むだとにしています。一日15講座から20講座、毎日開講しておりますし、一ヶ月で500講座を開講していますので、多種多様な講座を好きなように、広くも深くも受講することができる。オフィス系(Word、Excel、Access、PowerPoint)はもちろんのこと、CG・DTP・3D・WEBデザイン系、ネットワーク系、ホームページ作成系、プログラミング言語系など、それぞれの初級から上級まで現在のパソコンカリキュラムのほとんどを網羅しています。

すべてのコンピュータがネットワーク=インターネットでつながれつつあることを考えると「ワード」だけやれてもしようがないわけですね。「エクセル」をやれただけでもしようがない。「ホームページ」をやるのであれば、アクセスのデータベース機能を持ったようなホームページをつくっていくことも必要になる。知的な社会の知的な課題というのは、総合性ということがすごく大きい。〈経験〉は〈総合性〉という課題に敵対するところがありますが、〈情報〉や〈知識〉は絶えず全体的な認識を志向します。全体を認識しながら自分の仕事をするということは大変重要な課題で、一つのアプリケーション、一つの機能に縛られたコース制はその意味でも問題が多い。さらにそのうえ、ワープロ講座で3万円、CG・3Dで10万円、JAVAで10万円、ホームページで10万円などと、〈コース〉単位でお金を使っていたらいくらお金があっても足りない。内容的な境界と経済的な境界がコース制の問題を形成しており、それが真に必要とされるトータルでフレキシブルな学習、仕事に対応するIT学習を阻んでいたのです。

 以上3点が我々がカリキュラムをつくるところで留意したことであります。
 これら3点の問題は、結局のところ、社会人学習(生涯学習)と学生学習(学校教育)との差異につながっています。社会人と学生との最大の相違は、学習動機の軽重です。社会的な経験を大なり小なり経験している社会人にとって、学んだ知識や技術が実際の場面でどんな意味をもつのかということは、(個人差があるにしても)イメージがつきやすい。したがって、講座選択の動機が学生に比べれば、はるかにリアルです。たとえば、Wordを学ぶにしても、社会人はWordの「罫線」が学びたいわけです。Excelを学ぶにしても「財務」関数が学びたいわけです。個別の課題から学習動機を掴むのが社会人です。しかし学生には教育内容の外を指向する学習動機が存在していません。したがって、基礎から順に学ぶことが学生教育のカリキュラム(学年や学部に拘束された基礎-応用カリキュラム)であったわけです。

 〈コース〉というのは、その意味で学生教育には馴染むかもしれませんが、社会人には不適応だったわけです。私たちのカリキュラムでは、例えばWordの文字入力だけを勉強する人は、文字入力をもっと効率的にやりたいという人は、「文字入力」という講座があったり、「罫線/表作成」だけの講座があったり、「差込印刷」だけをする講座というものを持っています。社会人が今自分はどういったスキルを身につけたらいいかというときに、その講座にだけ出れば、目的と受講内容とが一致する仕方で勉強することができる。それはExcel、Access、ホームページやネットワークの講座を含めて、すべての講座でそういった一つ一つの講座を自立的に分節化していますので、学習のスピードや、あるいは学習課題の多様化に対応できるようなカリキュラム構成になっています。今日はWord、明日はAccess、日曜日はネットワークというように自分の仕事に合わせて講座をアレンジすることができる〈〈ユーザー〉カリキュラムになっているわけです。

 ところが、こういった社会人の学習動機の明確さは、本来〈学ぶ〉ということが持っている知見の拡大という傾向に反する場合があります。学びたいことを学ぶということは、悪くいえば、狭い実益主義です。現状の仕事の延長上に自らの仕事の仕方を描いただけのことなのです。つまり自らの〈経験〉を強化するためだけの学習にとどまる危険性があるわけです。社会人学習のカリキュラムにとって重要なことは、経験からの学習動機を、もっと広い、別の知見へと拡大する契機を持たせることにあります。

 これを妨げていたのが、コース単位の料金制度だったわけです。〈コース〉、つまり〈分野〉によって料金を設定しないことによって、どんな横飛びもできるカリキュラムにしておくことが、スピードとともに統合化が要求されているIT学習のもう一方の課題だったわけです。私どものカリキュラムでは、たとえばWordの基礎を受けただけ人が、とんでもないことなんですが、最近JAVAというのをよく耳にするから、JAVA講座を受けてやれといって受ける方もたくさんおられます。講師の人間は大変苦労していますが、しかし私どもとしてはそれは考えていたことで、私どもの学校に来ないと一生JAVAの勉強なんてしない、そういった人たちが十分JAVAの学習を楽しんで、そこでまたある種の関心の花が咲いて、JAVAのどんどん上級まで突き進んでいくというようなことが結構起こっています。そういった新しい知的な交換の形態、経験を軽くする形態、言ってみれば、ホームページのハイパーリンクのように自分の関心の赴くままに自分の知識を自分の理解過程に従って拡大していく形態が、〈経験〉的な社会人に必要な学習形態だろうと思っています。私どものカリキュラムがそういった知的なスキルの自由な拡大の場所になっているということです。

 もうひとつ、最後に言っておかなければならないことは、パソコン学習における学習方法の根本的な変化ということです。たとえば、Excelの中上級者になってきますと、かならず、統計の勉強がしたくなります。回帰分析がどうだとかクロス集計がどうだとか、大学時代に文学部に在籍していて太宰治論で卒論を書いた人が、就職後4~5年後でそんなことを言い始めるわけです。統計の基礎からExcelを学び始めるのではなくて、Excelの実務使用の中から統計学の基礎を学びたくなるということ、こういったことはパソコン〈ユーザー〉の分野で不断に起こっています。CG・DTPのオペレータが〈デザイン〉の勉強を本格的にしたくなる。3Dのデザイナーが、建築の勉強をし始める。つまり、従来の基礎教育から発する体系的な学習は、IT分野ではほとんどあり得ない。教育分野ではそれを〈ミドルスタート〉と呼んでいますが、〈ミドル〉とは、単に学習の順番の逆転だけではなくて、分野と分野との〈ミドル〉(中間)からの開始をも意味します。つまり専門家育成の狭いコース主義では、ITの可塑性の高い技術学習に見合わないということです。

 今、文科系の社会人がパソコン学習に嬉々として参加しています。たぶんこの人たちは、〈技術〉ということから疎外され続けた人たちです。勉強の内容も、特に太宰治を読んで、何がどうなったか、ということに関してある種の曖昧さが学習の特質であるような学習を重ねてきた人たちです。この人たちは社会人になると“キャノンの情報革命”とか“花王の情報革命”、アサヒビールの逆襲“といった経営戦略論やマーケティングのビジネス本を(立ち読みで)読んできた人たちです。太宰治論が曖昧であったように、これらの本を読んでも何が自分を変化させたのかは曖昧なままだったわけです。結果論的な経営学者にだまされ続けた彼らは、〈技術〉というものを学習したことが一度もなかった。ところが、パソコンでExcelの関数を知っているのと知らないのとでははっきり差が出る(実感的に差が出る)。Excelを1時間学ぶのと2時間学ぶのとでは、はっきり倍の差が出る。太宰の本や経営戦略論を10ページ読むのと20ページ読むのとでは差は出ませんが、ExcelやAccessを学ぶと仕事の仕方に変化が出たり、次の課題がはっきり見えてくる。こういった実感が〈技術〉の学習にはついて回る。これは、多くの文科系の社会人には、新しい発見だったわけです。〈ミドルスタート〉する「遅れてきた青年」たちの学習意欲が、今日の〈ユーザー〉コンピューティングの隆盛を背後で支えているわけです。そういう意味では最初に申しました新知識主義の時代は新技術主義の時代でもあるといえます。この人たちに定位することが、IT人材育成の鍵を握っていると思います。

 現在、月間でのべ8,000名(昼間4000人、夜間4000人)の社会人の方々が私どものカリキュラムを利用されています。とりあえず我々の3点の前提、①資格カリキュラムを持たない ②コース制のカリキュラムを持たない ③定額制でどんな授業でも受けられる状態にしておくという体制がとりあえずは認められつつあるのかなというふうに思っております。(了)

於:新橋・三和総研会議室(2000年・9月25日)

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