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 新ザウルス「ざうまがWEB」事件と『四人はなぜ死んだのか』 2000年12月20日

「ざうまがWEB」事件(「芦田の毎日」163番http://www.ashida.info/trees/trees.cgi?log=&v=167&e=msg&lp=167&st=0~176番http://www.ashida.info/trees/trees.cgi?tw=&log=&search=&mode=&v=174&e=res&lp=167&st=0を参照のこと)で、私が一番強く感じたのは、「他者」とは何かということです。

この「ざうまがWEB」で(リーダーシップをもって)発言している人たちは、マニュアルなしでもザウルスが操作でき、マニュアルに書かれていない機能も知っている人たちです。もっと言えば、アプリケーションも自分で作ってしまう人たちです。そういう“反応”が、私の意見に一挙に殺到しました。

たとえば、今回の件で言えば、「ユーザー辞書が今回の新ザウルスにはない」という私の指摘に対して「年明けにはインターネット上でサポートされます」などと答えてくる。あるいは、「フロントライトの常時ON設定が初期設定の中にない」という私の指摘に対して、「ありますよ」などと答える。「(嘘をついて)すみませんでした。教えて下さい」と言うと教えてれるが、それは、“裏技”。「解説書のどこに書いてありましたか」と聞くと、「私は解説書なんて一回も見たことがありません」と誇らしげに答えてくれる。そして、こうして「ものを買うときにはきちんと調べて買うべきです」と説教されて、私は“スミマセンでした”というより他なくなる。

この人たちは12月15日の新ザウルスの発売日前から、今回の新ザウルスの裏情報をかき集めて、“賢い”消費者となっている人たちなのだ。

もっと別の言い方をすれば、商品としてのザウルスの欠陥を自らで補うことができる「消費者」なのである。

こういったインターネット上の「(賢い)消費者」は、〈商品〉をダメにするというのが今回の最大の経験だ。

私が商品コンセプトに不整合があると指摘すると、「そんなのは、こういう使い方をすれば不整合(欠陥)ではない」とか、「商品に欠陥があることは認めるけれど、それは知らずに買った消費者が悪いんだ」というのは、いったいどういう発言なのだろうか。

はっきりしていることは、こういった立場に立てば、〈商品批判〉という観点は出てこないということだ。

〈商品批判〉というのは、メーカーの(主観的)意図とか、あれこれのユーザーの使途とは関係なく、まして裏情報とは関わりなく、商品それ自体に内在している思想を取り出すことにある。それ以外に商品を批判することはありえない。

商品それ自体に内在している思想、というのは、誰でもが公開的にアプローチできる内容ということである。アメリカの良質な消費者運動の一部では、商品が出る前の批評を行わないという原則、つまりそのものを“普通に”買って批評するという原則を守っているところもある(日本で言えば、『暮らしの手帳』の商品テストがそうだった)。

商品についてそれが市場に出る前に「知る」というのは ― 私はその努力をしないから「ざうまがWEB」から怒られたわけですが ― 、自動車批評がそうであるように、かならずメーカーの情報に媚びざるを得ないところが出てくる。またそういった情報の正否は誰も判断できない。なぜならそれはまだ人々が手にする商品そのものではないからだ。

よくAV(オーディオ・ビジュアル)誌の商品批評で、商品完成版になったときには「もっといい色調がでるだろう」(ビデオの場合)などとわけのわからない前情報“批評”を加えている批評家がいるが、これを読者はどう“理解”すればいいのだろうか。

こういった“批評”は誰も(第一にメーカーが、第二に批評家も)責任をとることができない。なぜなら、まだ〈商品〉ではないもの(特定の人間しか知らない特定の商品、つまり私的なオブジェ)を批評しているからだ。

それはアングラ情報で“政治批評”したり、“分析”したりする評論家に似ている。人が知らない、共有できない(容易に近づけない)情報でもって、批評する。それは、私的なことを私的に語っている単なるモノローグにすぎない。だから、少しでも〈他者〉が入り込んでくると感情的になったり、(インターネットの場合には)IPアドレスまで追跡して排除してしまう。

たとえば、昨年ベストセラーになった三好万季の『四人はなぜ死んだのか』(副題:インターネットで追跡する「毒入りカレー事件」)http://www.bk1.co.jp/cgi-bin/srch/srch_detail.cgi/3a0754420f7d80104bbf?aid=&bibid=01689638&volno=0000が圧倒的に優れていたのは、新聞や公的研究所の公開情報を当てにして推論を重ねていく、というスタイルを取っていたからだ。

彼女がそのとき中学三年生だったということの意味は、彼女が天才だったという意味ではなくて、中学三年生でもアプローチできる公開性から彼女が出発したということを意味するだけのことである。彼女は、インターネットに定位することによって、批評の健全性(多くの思想家が長年の文体的修練を経てはじめて実現しうる批評の健全性)を、まったく別の形式でもって無意識に実現したのである。『四人はなぜ死んだのか』は、そこがまったく新しかった。

公開情報を基本にするということが、なぜ大切なのか。それは、その反対意見自体が公開的に語られることを意味するからだ。そこではじめて〈議論〉が、そして〈批判〉が成り立つ場ができあがる。公開性は〈他者〉 ― 本来の共同性 ― が存立する基盤なのである。

同じインターネットに定位しながら、「ざうまがWEB」と『四人はなぜ死んだのか』との差異はどうして生じてしまうのか?

何千人、何万人、何億人集めようと、インターネット上の一サイトは、単に一人の人間(管理者)の現前(プレゼンス)にすぎないということ。それは、たとえば、どんな最先端の技術を駆使して人工知能や人造人間を作ったところで、単に地球上に人間が一人増えたにすぎないという事態に似ている。

問題は、〈人間〉を一人増やすことではなくて、〈人間〉を超えることなのである。

重要なことは、人間の数や、それに応じた多数の意見なのではない。そういった併存、〈私(の意見)〉と〈あなた(の意見)〉とか、〈あなた(の意見)〉と〈彼(の意見)〉とかいう場合の〈と(and)〉の場所など《この世》に存在したりはしない。それはインターネットがどんなに発展しても変わらない不変の真理である。

思考は個体にしか訪れはしない。

『四人はなぜ死んだのか』の三好万季は、単独でインターネットに他者(公開性)を見つけたのである。そういった単独性がもつ緊張感がないところでは、インターネットはどこまでいっても、むしろ個体の内閉性を強化するばかりの媒体にすぎない。そうやって「ざうまがWEB」は、内閉してしまったのである。自らの形成した共同体が幻想だったことを自ら露呈したのだ。というより、それは共同体の幻想性というよりは、単に一人の人間が〈世界〉に対峙できなかったということを露呈したにすぎない。つまり、どこにでも自分勝手な奴がいるということが単に露呈したにすぎない。

(明日以降の「芦田の毎日」に続きます)


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投稿者 : ashida1670  /  この記事の訪問者数 :
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