続々・日米野球観戦 2000年11月06日
たとえば、学歴(偏差値)主義は家族主義からの解放を意味しました。特に○×式回答やマークシート方式は、家族主義からの完全解放でした。記述主義採点や面接がないというのは、家族(幼少時における環境)を斟酌しない、知識だけを問うことを意味しています。それが○×式回答、マークシート方式試験の意味です。
つまり、○×式回答、マークシート方式試験というのは、親という“前歴”を問わない試験だということ。その意味で〈自由〉な試験なわけです。
主要5科と言われている国語・算数・理科・社会・英語が、なぜ、「主要」であって、体育や美術や音楽や家庭科がなぜ差別されているかといえば、それらは、家庭環境(あるいは、親の関心や親のDNA)に左右されやすい「科目」であり、それにくらべれば、主要5科は、知的要素が高いと言う意味で受ける影響が少ない。
つまりそれらもまた〈自由〉な科目であったわけです。
○×式回答、マークシート方式試験、主要5科目といった〈受験〉体制(学歴主義)の進展は、近代化にとって、必然的な道でした。日本ほど、官僚や大会社に、さまざまな“身分”の人間が混在している社会はないでしょう(それが日本の高度成長を支えました)。
これは親という前歴を問わない学歴社会(=○×式回答、マークシート方式試験)の成果です。
(近代的な)個人が自立するということは、その意味で、家族からの自立を意味しました。
〈自由〉〈平等〉〈主体性〉といった近代的な諸概念は、そういった所与、個人が選び取ったものではない所与性(主要五科目は努力すれば何とか点数があがるが、〈音楽〉で満点取れと言われてもそれはむりだというように)を嫌ってきました。
〈個人〉は、何にも染まらないゼロから始まってこそ個人だからです。したがって近代主義では、たとえば中国残留孤児がみずからの“ルーツ”を執拗に問うことの意味が説明できない。
しかし与えられているもの(自らを選んだものではないもの)を、与えられているものとして引き受け直すことに、本当に意味はないのでしょうか? 東京ドームの、男の子が(あるいはお父さんが)うつむきながら寂しくグローブをたたいていた。これは、単なる近代的な自立性のなさを意味しているのでしょうか?
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